第3回「SF研との出会い」「関西学生SF研究会連盟」

SF研との出会い
快傑のーてんき 2年生になったとき、新入生向けの勧誘ポスターを見つけて、ようやくSF研に入会できた。ここでようやくSFの話※1をできる大勢の仲間とめぐり合うことになった。
 ぼくは自分で結構な量の本を読んでると思ってたけど、SF研に入ると、まぁこれが驚くべきことに先輩たちは僕以上にむちゃくちゃな量を読んでいる。話をしてみればとにかくいろんなことを知っていて、ひとつの話からあっちこっちいろんな方向へ飛んでいってはまた元に戻り、また別の方向へいく。もうただ話をしているだけなのに楽しくて楽しくてしかたがなかった。もうSF研に入り浸り状態。と言っても大学の公認団体じゃなかったので部室もなく、喫茶店のハシゴを繰り返していたが、いつも最終的には「サンセットイン」※2という大学の正門近くにある喫茶店に落ち着いた。どのくらい落ち着いたかというと、20年たった現在もこの「サンセットイン」がSF研の例会場所になっているのだ。この前久しぶりに「サンセットイン」の人々と会ったのだが、当時小学生だった娘さんがすでに大学を卒業していたのには、ほんとうに時間の経過を感じた。ちなみにお約束なので、その娘さんには「昔は一緒にお風呂に入ったじゃないか」と言っておきました。でもこの時代、こういったなじみの喫茶店があるということは日本全国のSF研やSFサークルではあたりまえのことだっだようだ。
 SF研に入ってからの大学生活はただただひたすら楽しかった。仲間たちはひと癖もふた癖もあるやつらばかりだった。
 たとえば水野※3という今は警官をしているひとつ後輩がいた。こいつはSF小説はもちろん好きで読んでいるけど、それ以上に映画が好きで沢山観ていた。当時公開されてた『リビングデッド』、いわゆるゾンビ映画がどうしたわけか大好きで、その映画の話ばかりしている。で、短絡的だけどゾンビというあだ名がつく。
 たとえば三輪※4という後輩は、SF以外には落語が好きで、ネタ振りをするとすぐ落語を始めてしまう。三輪は後にゼネプロの取締役を一時務めることになる。
 たとえば先輩(当時でもうOBだった)の岡本安司※5という人がいる。ヤッシとか、やっさんと呼ばれていたけど、この先輩はファンダムのSF大会等で司会やしゃべくりで有名だった。意外に思われるかもしれないが、ぼくは人前で話をするのが苦手で赤くなってしまう。そんなぼくの人前でのしゃべくりの師匠に当たるのがこのやっさん。
 それ以外にもアルゼンチン帰りの先輩(でも同学年)の池田さん6※とか、新入会員のころから顔が栗饅頭そっくりという理由だけで、20年以上も「クリマン」と呼ばれ続けている後輩(現在ガイナックスにいる)外山※7とか、どちらかといえば、変人に近い連中ばかりだった。こういった怪しさは当時どこのSF研や漫画研究会、ミステリー研究会でもやっぱり同様であったらしい。
 SF研の頃はファン活動がしたいというようなことより、SFの話をできればよかったと思う。いや、むしろSFという同じ趣味を持つやつが集まっての馬鹿話がメインだったかもしれない。
 ところがSF研にぼくと同時期に入った1年先輩の後藤さん※8という人は違っていた。この人は京都にある創作グループの『星群の会』※9に入っていて、自分でも小説を書いていた。ぼくが出会った初めての「プロ作家になりたい」と言っているSFファンだった。というより、自分のビジョンを自ら人に語って聞かせる人物に人生で初めて出会ったといえる。これは結構、ぼくに衝撃を与えた。後藤さんは本当に顔が広くて『星群の会』だけじゃなく、大阪以外の地方のSFファンダムとか、当時のいわゆるBNF(ビッグネームファン)※10みたいな人たちとも交流があった。その後藤さんがある日ぼくに「関西近辺の大学のSF研の連絡網みたいなのを作りたいと思ってる。おまえも手伝ってくれんか?」と言うわけだ。ここから急転直下。SF研に入り浸りで授業もさぼり気味だったぼくの、ますます学校に行かない日々が始まることになった。というか、これこそがぼくのその後の20数年間への第一歩だったかもしれない。
のーてんき用語/人物事典
※1
SFの話
特にSF小説の評論をしあうわけではない。同じ趣味を持ったもの同士で、他の人々には敬遠されがちな話題で盛り上がることが楽しかった。
要はマニアックなバカ話である。
※2
「サンセットイン」
近畿大学の正門手前を左に曲がったところにある喫茶店。
いつの頃からかSF研の溜まり場となった(聞くところによると、20年以上たった今でもそうらしい)。マンガ研究会も同じ場所を溜まり場にしていた。武田の在学中、卒業後も店を拡張しているところを見ると景気はイイのか? 3年前、マスター念願のペンションを白馬にオープンした。
※3
水野喜代志
近大SF研で武田の1年後輩だったが、武田が留年するやいなや「今日からは同学年や」といきなりタメ口になった。武田に厳しくあたる人物の第一号となった。特撮映画、ホラー映画のマニア。現在は警察官。
※4
三輪基博
近大SF研の後輩。学外でもファン活動をしていた初めての友人。彼を通じて知り合った人物も多い。
デザイン・編集担当でゼネプロに入社。猛烈に寒い駄洒落を飛ばし「センスの神様」の異名をとる。変なおもちゃをどこからともなく探してくる名人。1988年失踪。
※5
岡本安司
近畿大SF研のOBで、当時のSF大会をはじめとするさまざまなイベントで司会役をしていた。武田たちの前の世代で幅広くファン活動を行っており、顔も広かった。早いテンポの大阪弁での強烈なツッコミは印象的で、今でも古手のSFファンは「今ここに岡本安司がいたらこう言うね」などと口にするらしい。
武田の話術の師匠である。
※6
池田秀紀
近大SF研の先輩。父親の仕事の都合で3年間ばかりアルゼンチンで過ごしたらしい。物事をはっきりさせないと気の済まない気性で、何かにつけて理路整然と意見を呈されたのは、武田にとって印象強い経験だった。
※7
外山昌平
近大SF研の後輩。
その風貌から「クリマン」と命名したら、20年以上その名前でしか呼ばれていない。現在もガイナックスに在籍しているが、本名を知る人は少ない。風貌、性格ともに「王立宇宙軍」のチャリチャンミのモデルになっている。
※8
後藤俊夫
近大SF研の1年先輩だが留年していて、武田と同じ2年生として出会った。後藤俊一というペンネーム(ひょっとすると本名と逆かも)で小説を書くなど、武田が初めて出会ったプロ志向の人物。
※9
『星群の会』
京都(現在は大阪)をベースに活動していたSF創作同人誌グループ。
1971年活動開始の老舗サークルで、プロになることを視野に入れて活動する人も多い。菅浩江や水野良といったプロ作家を輩出している。
※10
BNF(Big Name Fan)
プロというわけではないが、積極的にSFファン活動を行って名が売れた人たちをこう呼んだ。敬意をもって呼ばれるはずの呼称だが、揶揄する場合に使われることも多い。プロの出版社では作品を発表していないが、ファンでは有名な作家、評論家など。ファンに対する「影響力」に重きを置いているところが、最近の「コミケ作家」とはちょっと違うか?

関西学生SF研究会連盟
 あの当時、世の中はSFブームみたいなことになっていて、だいたいどこの大学でも規模の大小はあれSF研が存在していた。
 面白そうだからというだけの理由で、あっちこちの大学のSF研と連絡をとったり、連絡組織設立の呼びかけや、会議等とまぁいろいろ手伝ってた。この時設立された「関西学生SF研究会連盟」※11、通称「関S連」がのちにぼくらが初めて主催したSFイベント「第4回SFショウ」の運営団体になる。
 この時代はまだほんの少しだけ学生運動の影響が残っていたらしい。その残滓というか燃えカスのようなものが関S連の勧誘に行ったときに感じられた。というのも他校のSF研究会の人間が突然やってきて「あーだこーだ」と話をするのが気に入らない様子なのだ。ようするに自分たちのSF研究会のことは自分たちでする(自治する)ってな感じだった。当たり前だが、ぼくは学生運動にはかけらも触れていなかったので、最初は戸惑ったもんである。「オルグ」だの「プロパガンダ」といった聞いたこともない単語がでてきた。でも、そういうことを言っている人たちもよくわかって言っているようには思えなかった。そのうちそういう連中とは付き合わなくなった。
 最初は近大を含めて参加大学は4~5校だったんだけど、面白いから熱心に動き回っていたら「あんたが事務局※12をやれ」って雲行きになって結局ぼくが初代事務局長になった。
 今となっては後藤さんの真意がどこにあったのかわからないが、この段階では関S連はイベントをする団体を目指すとかいうものではなく、本当に各大学のSF研の連絡会で、年に何度か連絡誌を出す程度の活動をしているだけだった。
 とにかくまぁ正直、ぼくにとって趣旨とかなんとかはどうでもよくて、何でもいいから面白いってのが大事だった。
 そんなことばっかりしていたもので、どんどん大学に行かなくなった。
 もちろんSF研の仲間とは相変わらず喫茶店で会っていた。
 その頃のぼくの一日は、目が覚めると溜まり場になっていた喫茶店に行って、コーヒーを飲みながらSFを読む。仲間が集まってくるとバカ話で盛り上がり、日が暮れると飲み屋に場所を移してさらに盛り上がるという次第。毎日が楽しかった。
 必然的に大学は留年し、2度目の2年生をやることになってしまった。
 そんな生活の中で、初めてSFのイベントに行くことになる。
 直接のきっかけは忘れてしまった。近大SF研の後輩の三輪が高校生の頃からファン活動をしていて、SF大会※13にも行っていると言う。聞けばSF研や関S連の仲間たちも行く人間が多い。SF大会というのは、知ってる人には今さらな説明だけど、SFファンが主催するイベントで、年に1度開催されている。特に主催団体が固定されているわけではなく、「やりたい」っていう連中というかグループが手を挙げて立候補するので毎回主催者は変わる。だから大会の場所は全国にわたるし、企画内容や開催方式、開催日程も毎回変わる。都市型といって、東京や大阪のような都市圏では、会場と宿泊場所が別々の大会がある。特に宿泊する必要がない。またリゾート型といって、大きな会場が借りられない、もしくは宿泊が絶対に必要な地方で開催する場合、旅館を借り切っての合宿のような大会になる。そんな時は二泊三日の場合もある。もちろん、徹夜の飲み会にもなる。SF大会の参加には体力も必要である。それゆえに「SF大会の本番は合宿にこそある」という人も多い。
 その日本SF大会も2001年の大会で40回を迎えた。ということは40年続いていることになる。初期の大会主催者は現在では作家としても大物になっている人が多い。小松左京※14や筒井康隆※15、野田昌宏※16もSF大会の大先輩なのだ。SF大会はアマチュアが開催するイベントだけど、SF界は作家とファンの間か比較的近くて※17、ファンだけでなくプロの作家も多く参加している。このようなファンイベントはSF以外のジャンルでは考えられない。
 もくも存在はなんとなく知っていたけど、参加しようと思ったことはなくて、「へぇみんなそんなとこに行くんだぁ」って感覚で聞いていた。
 まぁ、一度くらい行ってみるかという気持ちで、香川県でローカルコン※18があるというので参加申し込みをした。
のーてんき用語/人物事典
※11
「関西学生SF研究会連盟」
大阪近郊の大学SF研の間の相互連絡組織。月一度の連絡会議と連絡誌の発行をしていた。
最盛期(DAICON4の頃)には、大阪大学、大阪府立大学、大阪市立大学、近畿大学、追手門大学、龍谷大学、大阪外語大学、大阪電気通信大学、大阪芸術大学の9行が加盟していた。
相互交流に熱心だった1980年代のSFファンの活動の一つで、SF大会やDAICONFILMへの人材供給に貢献した。
DAICON4以降は求心力を失い、数年で自然消滅したと思われる。
※12
事務局
この種の団体は、特定の活動拠点を持たないため、連絡役を務める個人が「事務局」を名乗ることになる。
要は、複数の団体の連絡調整役ということ。
※13
SF大会
米国の世界SF大会(ワールドコン)を範として始まったSFファンの集会。第1回が1962年に東京で開かれてからすでに40回を数える。全国のアマチュアグループが持ち回りで主催し、年に一度(たいてい夏休みに)開催される。
毎回開催の形態は異なっていて、温泉地で開かれる合宿のようなものや、舞台での講演や上演が主のショウ形式のものがあったりする。
プロの作家、漫画家、翻訳家、編集者の参加も多く、また、大会の場での活動をきっかけにプロ活動をはじめるケースも多い。
1980年頃は、吾妻ひでおなどの漫画家による大会のレポートが話題になり、世間のSFブームとあいまって、大会に参加する事、大会を主催する事に注目が集まった時期でもあった。
主催団体は毎回入れ替わるが、大会の開催権は「日本SFファングループ連合会議」が管理している。
※14
小松左京
SF作家。「日本沈没」「さよならジュピター」など。
日本SF界の重鎮。1970年の万博でもテーマ委員をつとめるなど、その活動範囲は多岐にわたる。
SFショウのゲストに来てもらって以来、ファン活動をしていた学生の武田らを色々とかわいがって頂いたいただいた。地元大阪で活動していたこともあり、イベントの相談などに乗って貰ったことも多い。
武田が主催した2001年の第40回日本SF大会では、名誉実行委員長をつとめて頂いた。
※15
筒井康隆
SF作家。「時をかける少女」「家族八景」「虚航船団」など著書多数。氏が名誉実行委員長をつとめた1975年のSF大会「SIINCON」は、1,000人を超える参加者数もさることながら、ショウアップされたエンターテインメント性の高さはその後の大会の方向性に大きな影響を与えた。
1993年、言語規制に抗議して「断筆宣言」(96年に解除)。映画、演劇、テレビドラマへの出演などでも活躍中。
※16
野田昌宏(宏一郎)
TVプロデューサー、SF作家・翻訳家。TV制作会社「日本テレワーク」社長。
初期のSF大会を開催するなどした日本SF界の大御所。自称「宇宙軍大元帥」。
数多くのスペースオペラを翻訳し、自らも小説を執筆している。パルプマガジンのコレクターとしても有名。
辣腕のTVプロデューサーであり、ガチャピン・ムックで有名な子供番組「ひらけ!ポンキッキ」の生みの親。ファン活動の支援にも積極的で、武田らも大会の開催やゼネラルプロダクツの設立にあたってずいぶんお世話になった。実はガイナックス設立以来の監査役でもある。氏のファンクラブ「宇宙軍」は現在も活動を続けている。
※17
作家とファンが近い
TSF大会自体、まだ無名時代のSF作家たちが中心になって、ファン同士の交流を目的として開催したものである。SF大会での交流を通じてデビューに至った作家や編集者も多い。またSF作家たち自身が熱心なSFファンであるため、仲間を求めてSF大会にやってくるという側面がある。夜の合宿所で作家や編集者とファンとが車座で酒を飲むような光景はSF大会ではおなじみだが、他の分野では考えにくいことではなかろうか。
※18
ローカルコン
年に一度開催される「SF大会」に対して、各地のファングループがそれぞれ独自に開催する地方イベントをこう呼んだ。地方に根付いた活動であることもあって、長く定期的に開催されているものも多い。

この記事は『のーてんき通信 エヴァンゲリオンを作った男たち』(2002年発行・ワニブックス刊・武田康廣著)からの抜粋再録です。文中の役職や会社名・所属などは2002年当時のものです。