第2回「少年期のおわりに」「運命の大学入学」

少年期の終わりに
快傑のーてんき 子供の頃のぼくは、今で言うところのオタクではなかったと思う。
 物心ついた頃、家にはテレビはあったし、漫画雑誌も『少年マガジン』『少年サンデー』がすでに存在していた。その当時のアニメや漫画は何故かSF的設定のものが多くて、ぼくはそれらの作品たちにハマっていた。SFというか未来的な作品にある不思議な魅力、かっこいい未来にあこがれた。でもそれだけだ。それはその頃の子供としては、ごく一般的だった。テレビや漫画の他にも好きなもの楽しいものはいっぱいあったし、アニメや漫画ばかりにハマりきった子供時代を送ったわけでは決してない。
 ただ同年代の子らと少し違っていたのは、小説を読むのが好きだったことだろう。きっかけはもう忘れてしまったが、小学校4年くらいの頃から特に好きになって、同級生が校庭で走り回っているときにぼくは図書館に通っていた。好きな本を買うという時代ではなかったと思う。本が読みたいなら図書室である。そして読むのはひたすらSFと推理小説。もちろん小学生向きに翻案されたものだったが、むさぼるように読んだ。作品でいえば「ルパン」や「ホームズ」、作者ならば「クラーク」※1「ハインライン」※2等の60年代前半のSF作家たちだった。いわゆる「基本」の作家である。もちろんその他の作品作者も多数読んだ。あげくの果てに小学校5年生のとき、「ずっと図書館にいられる」という理由で図書委員になった。ほんの少しでも本を読んでいる時間が欲しかったからだ。今考えると残念なのは、読んだ本のことを語る友達を身近で積極的に探さなかったことだろう。
 初めて創元や早川※3の、いわゆる子供向けじゃないSFに出会ったのは小学校6年生のときだった。その初めての本が『グレイレンズマン』。でも実はこれは読んでる途中で理解できずに投げ出した。理解できないんだから面白いわけがない。面白くないものは読み続けられない。極めて単純な理由だ。SFファンならご存知だろうが「レンズマン」※4はシリーズ物で、そのシリーズ物の途中の1冊だけを小6の子供が読んでも理解できないのはしかたなかっただろう。
 もちろんそれくらいのことで本を読まなくなるようなことはなかった。そして次に出会った本がヴォクトの『宇宙船ビーグル号』※5。これが面白くて面白くていろんな意味で決定的だった。この作品に出てくる主人公の総合科学者が冷静で計算高く、そして目的に忠実なリーダーシップを発揮していてめっちゃかっこいいなぁと思った。ぼくの中の科学者※6像はこの作品によって形作られたと言ってもいい。同時にSFをますます好きになったのもこの本のおかげだろう。今でも2~3年に一度は『宇宙船ビーグル号』を引っぱり出してきて読み返してる。何度読んでも飽きない。
 今から考えるに、「文学的」な小説は挑戦してもすぐに飽きてしまってあんまり読んでいなかったように思う。ぼくをわくわくさせたのは、SFや推理小説、冒険小説ばかりだった。学校の課題図書は結構読んだけど、何であんなに児童文学は暗い話がおおかったのだろうか? まだ、戦争の影が残っていたからかもしれない。ベトナム戦争の最中でもあったし、日本人にとっても身近な戦争の記憶がまだリアルに反映されていたからかもしれない。少なくとも現在のテレビで見る「遠い戦争」ではなかったのだろうな。考えてみればぼくが生まれた1957年は、まだ太平洋戦争が終わってからわずか12年しかたっていなかったのだ。
 ちょうどその頃、アポロ11号※7が月に着陸し、しかもそれがテレビで生中継されている。今、この瞬間に人類が月に立っているんだと思うと興奮した。ずっとテレビにかじりついていて観ていた。ほんとうに科学ってすごいと思った。
 そして、ぼくの科学信仰をさらに決定付けたのは1970年の大阪万国博覧会※8だ。
 同世代の人には理解してもらえると思うが、大阪万博は科学がこれから実現していくであろうぼくらの未来の象徴だった。当然のようにアメリカ館には月の石が展示され、ぼくはもちろん見に行った。2時間並んで、ただの石コロを見たのだ。その石コロはしかし月から持ち帰られた石コロだ。ただの石コロとは石コロが違うのだ。明るくて、凄くかっこよくて、おしゃれな未来を含んで後光が差しているように感じた。
 繰り返しになるが、ぼくが特別だったわけではない。あの頃の子供、特に男の子は多かれ少なかれ同じような気持ちだったと思う。
のーてんき用語/人物事典
※1
「クラーク」
アーサー・C・クラーク。英国出身のSF作家。科学理論に裏づけされた近未来を舞台にしたSF作品を多数発表している。
代表作に「2001年宇宙の旅」「地球幼年期の終わり」など。スリランカに在住。
※2
「ハインライン」
ロバート・A・ハイライン。米国のSF作家。強烈な人生論に則ったメッセージ性の高く、かつエンタテインメント性の高い作品が多い。
代表作「宇宙の戦士」「愛に時間を」「夏への扉」など。
※3
創元や早川
東京創元社と早川書房の2つの出版社がSF作品のほとんどを刊行していた。
特に早川書房はSF専門誌「SFマガジン」を刊行するなど日本SF界を独力で支えていた感があり、「ハヤカワこけたら皆こけた」と自嘲的な言を吐く日本人作家もあった。
※4
「レンズマン」
E・E・スミス作のシリーズSF。
宇宙パトロールものの原点とも言うべき作品。いわゆる「スペースオペラ」のルーツ。荒唐無稽なスケールの大きさでファンが多い。
全7巻が刊行されている。「グレイレンズマン」はシリーズ中盤の作品。
1984年には日本で映画とTVでアニメ化された。
※5
「宇宙船ビーグル号」
A・E・ヴァン・ヴォクト作の冒険SF小説。科学者を大勢乗りこませた科学探査宇宙船「ビーグル号」の冒険談。様々な宇宙生命との出会いをイマジネーション豊かに描く。
※6
科学者
「ビーグル号」の主人公は「総合科学者(ネクシャリスト)」と呼ばれる万能科学者。科学啓蒙色の強い本作にあってはスーパーヒーローである。武田はこの「ネクシャリスト」を目指すべく、理科系に進んだ。
※7
アポロ11号
1969年7月20日、アポロ11号による人類の月面着陸が果たされた。着陸の模様がTVによって全世界に実況中継されたこと自体、一大ページェントだったと言える。アポロが持ち帰った「月の石」は1970年の大阪万博のアメリカ館で展示公開され、大きな話題となった。
※8
大阪万国博覧会
1970年、大阪北千里で開催された万国博覧会。第二次大戦後、未曾有の高度成長を成し遂げた日本が官民一体で成し遂げた大プロジェクトでもある。「人類の進歩と調和」をテーマとし、SF作家の小松左京もテーマ委員として参加した。
その「未来的」な雰囲気は当時の日本国中を高揚させ、小中学生は何回万博に行ったかを競い合った。

運命の大学入学
 科学信仰はもちろん進学にも影響を与えた。
 大学は近畿大学※9に入学し、原子力工学を学ぶことを選んだ。
 理由はしごく簡単。これからの世界は電気を中心に動いていくだろう。コンピュータであれ何であれ、ぼくの思い描いている未来はすべて電気で動いている。そして電気といえばこれからは原子力だろうと18歳のぼくは考えた。
 実際ほんの少しだが「原子力」というものを勉強してわかったことは「これムチャや」ということだった。人類に「原子力エネルギー」は荷が重い。それ以外の電気エネルギー源を考えるほうが未来のためだと思った。
 近畿大学は一流とはとても言いがたい、当時のぼくの感覚では二流の大学だった。学生がやたらと多い学校で、そのため敷地内には4階建て、5階建ての校舎がまさに林立している、そんなキャンパスだった。当時日本最大のマンモス大学の日本大学の学生数が7万人とかのとき、近畿大学にも5万人以上の学生がいいたはずだ。「すべての学生が出席すると教室が足りなくなる」なんていう噂がまことしやかに囁かれていた。とにかくでかい学校で、そのでかさが災いしてか、ぼくは1年生の時、入ろうと思っていたSF研※10を見つけることができなかった。
 中学、高校とSFを読み続けている間に『SFマガジン』※11と出会い、世の中にはSF研究会というような存在があるらしいことを知っていた。出会いという書き方をしたけれど、オーバーではなく、ぼくの住んでいた町は田舎だったから本屋に『SFマガジン』なんてたまにしか置いてなかったのだ。もちろん学校の図書館にもなかった。
 それまであまりSFのことを語れる友達が身近にいなかったせいもあって、大学に入ったらSF研に入ろうって漠然と思っていた。
 ところがそれが果たせなかった。理由は簡単で、近畿大学のSF研は大学の公認サークル※12ではなかった。だから冷遇されれていて学内にも部室はない。それどころか存在すら認知されてなかった。そんな状況なので入学時期に貼ってあったポスターを見つけられなかったから、SF研に入会することも当然ながらできなかった。ガチョーンである。
 SFのことを一緒に話せる仲間が欲しかったんだけど、でもまぁいなければもう我慢できない! 死んでしまう! というほどでもなかったし、そのときはそれ以上探さなかった。
 高校時代は近所の仲間とバンドを組んでベースギターを弾いていたし、スキーに凝っていてシーズンになればスキー場へ通うという生活も読書三昧の一方にはあって、SF研に入れなかった大学1年のときはその延長で遊んでいた。
のーてんき用語/人物事典
※9
近畿大学
大阪市に位置する私立大学。日本有数の学生数を誇り「ミナミで石を投げたら近代生にあたる」などといわれる。卒業生に朝潮、赤井英和など。最寄駅から大学正門に至る道筋は「親不孝通り」と呼ばれ、雀荘、喫茶店、ゲームセンターが目白押しで、駅を降りた学生が教室にたどり着くのをはばんでいる。
※10
SF研
SF研究会。たいていは大学の学内サークルを指すことが多い。
中には創作同人誌や未訳海外SFの翻訳などの活動を行うサークルもあったが、たいていは、マニアックなネタの通じる仲間と延々馬鹿話を続けるサークルであることが多かった。
1980年代中ごろからは、漫研、アニメ研、ゲーム同好会、特撮研究会などと融合するケースが多い。近年のメンバーは、20代のくせに1970年代のアニソンばかりカラオケで歌う。
※11
『SFマガジン』
早川書房刊行のSF専門月刊誌。1959年創刊。1983年頃にはSF専門誌が4誌も刊行されていた時期もあるが、休刊することなく発行され続けているのはSFマガジンのみ。SFマガジンを読んでいるかどうかが、正統派SFファンであるか否かの試金石だとする向きもある。
※12
公認サークル
大学公認のサークルとなると、学生会館に部室が確保できたり、大学祭の出店で良い場所を確保できたり、大学から活動予算が出たりと特典もある。
しかし、大学のイメージアップに特に貢献することの無いSF研究会などは、なかなか公認サークルになれないケースが多い。

この記事は『のーてんき通信 エヴァンゲリオンを作った男たち』(2002年発行・ワニブックス刊・武田康廣著)からの抜粋再録です。文中の役職や会社名・所属などは2002年当時のものです。