第4回「SFイベントとのファーストコンタクト」「関西芸人」

SFイベントとのファーストコンタクト
快傑のーてんき ローカルコンは、日本SF大会とは別に地方のファングループが地元で開催するイベントだ。ローカルコンべンションの略ね。年に1度の日本SF大会とは別に小規模なファンイベントが全国のあちこちで開催されていた。
 行ったのはゴールデンウィークに一泊二日の日程で、香川県で開催された「SFフェスティバル78(略称セトコン)」というイベント。
 具体的な場所の記憶はあやふやだけど、確か栗林公園の近くの国民宿舎みたいなところを貸し切りにして開催されたイベントだったと思う。ぼくらのようなファンはもちろん、デビューして間もない夢枕獏さん※1が来てパネルディスカッションをやったり、同人誌でバリバリに活動しているBNFがいたりした。うちの後輩の後藤さんがそんな人たちに混ざって舞台に出ているのを見て、あらためて感心した。
 知らない人間がいたらどこがSFのイベントなんだと思われるかもしれないけど、四国らしく讃岐うどん早食い競争があったり、広間で勝手に車座になってバカ話に花を咲かせたりした。
 夜になると酒も入り、ますますヒートアップ。こっちの女性の集団がオタク話で盛り上がっているかと思えば、あっちではひたすらまじめにSFについて論議している。そうかと思えば古本を持ち込んで売ってる奴がいたりして、不思議な雰囲気を醸しだしていた。そしてぼくはその雰囲気が嫌いじゃなかった。いや、どっちかっていうと馴染める雰囲気だったのだ。
 そう、このイベントでぼくはその後のぼくの人生に大きく影響を与える人物と出会う。
 岡田斗司夫※2、のちにSF大会やゼネプロ、ガイナックスを一緒にやることになるその男は最初、関S連がらみの友人から「今度、うちの大学に武田さんそっくりなやつが入ってきた」という話だけを聞いていた。大阪電気通信大学の大西君というのがその友人で、彼もこのイベントに参加していて、岡田君を紹介してくれた。
 その当時はまだオタクという言葉がなかったんだけど、第一印象はまさしく「こいつオタクだ」という感じだった。「まるで女性のように長く伸ばした髪、変に熱っぽい語り口。彼がぼくに似てるんか?」そう思った。
 まぁ似てるっていわれれば似ているかもしれない。けどうれしくないし、そのときはそんなに話をするでもなく。親しい友達になったわけではなかった。
 それはともかく、ローカルコンがこれだけ楽しいんだから、日本SF大会はもっと楽しいに違いないってんで、すで申し込んでいたその夏の第17回日本SF大会、通称アシノコンにも大きな期待をもって参加した。
のーてんき用語/人物事典
※1
夢枕獏
SF作家。「キマイラ」シリーズ、「魔女狩り」シリーズなど、幻想的作品を多数執筆。「陰陽師」は一大ブームを巻き起こした。釣り、登山などアウトドアの活動でも知られエッセイや旅行記の著作も多い。
デビューまもない頃からイベント等でお会いすることも多く、以来親しくして頂いている。
※2
岡田斗司夫
株式会社オタキング社長。
1978年に出会って以来、武田の人生にもっとも大きな影響を与えた人物。
1982年、SFショップ「ゼネラルプロダクツ」を開店、1983年株式会社ガイナックスを設立し社長に就任した。
ガイナックス退職後は、東京大学非常勤講師(1992~1997)を勤めるなど「オタク文化」を論じて注目を集めた。
現在は作家やテレビコメンテーターとして活躍中。著書に「ぼくたちの洗脳社会」「オタク学入門」など。

関西芸人
 さてアシノコン※3である。
 日本SF大会はもともとがアメリカでやっている世界SF大会(ワールドコン)みたいなのを日本でもやろうってことで始めたイベントで、第1回は東京の目黒で開かれた。大会には愛称というか略称が、これもワールドコンに倣ってつけられていて、~CONというのが定番。17回大会は芦ノ湖畔で開催されるのでアシノコンという。ちなみに第1回大会は東京の目黒で開催されたのでメグコン。のちにぼくらが開催するのがダイコン。大阪でやるから大コンというわけだ。
 香川のイベントで期待を膨らませたぼくは、東京経由で芦ノ湖へ向かった。
 なにせ夏休みの真っ最中である。住んでいる大阪から東京の品川で船舶振興会主催の宇宙博覧会※4をSF研の仲間と一緒に見てから芦ノ湖に向かおうという大名旅行を計画したのだ。
 まぁ大概のSFファンの例に漏れずというか、大阪万国博覧会以降、ぼくは宇宙とかロケットとかがますます大好きになっていた。宇宙博覧会は月着陸船とか月面探査車とかサターンロケットとかをアメリカから持ってきて展示しているから、それを見て更にSF大会で盛り上がろうという予定だった。今考えるとそれはかえってよくなかったかもしれない。
 アシノコンは二泊三日の大会で、ローカルコンと違い、プロの作家や編集者なども大勢参加していた。
 ファンとプロが近いSF界といっても、東京と違って大阪にいるとそうそう作家と親しくなれる機会は多くない。SF大会は普段交流できないような人々と同じ空間を共有できるというので期待はいや増すばかり。
 ところが実際に参加してみると、なんだか楽しくない。1日目、パーティーもあって作家さんのそばで話も聞けた。これはうれしい。でも、他には? 何だかおかしい、こんなはずじゃなかったのに。それがそのときのぼくの感想。「入れ物は用意しました。みんなあとは適当にどうぞ」って感じがして、ぼくとしては不満だった。SFが足りないというか主催者側のホストとしての配慮が行き届いていないというか。せっかくの3日間をどっぷりとSF漬けにしてほしかったのだ。大会初心者に対するフォローがないとも言えたし、知り合いだけで盛り上がっている雰囲気が感じられて、結局ぼくらも仲間うちで固まってしまう。だから2日目の昼間なんかは、SF研の仲間たちとロープウェイに乗ったり、ようするにSF大会に来ているのに、その辺を観光して歩いてたというわけだ。観光自体を大会企画として狙っていればそれなりに面白いと思うが、同じ釜の飯を食うというか、同じ体験を共有するということが重要なことだと思う。
 このときのパーティーで、せっかくなんでコスプレ※5しようってことで(もっともこの時代まだコスプレという言葉はなく、仮装って言っていた)トイレからトイレットペーパーを盗んできて仲間の一人の体にまきつけ、ペーパーの芯を二つに切って目の部分に貼り付け、「スター・ウォーズのタスケン・レイダー」と言い張った。そのとき仮装した仲間の体のペーパーを「変なの」と言いながら千切り取る子供がいた。「こら!」と、その子供の頭を張り飛ばした。ところが、横に居た人が驚いて「その子豊田有恒先生※6のお子さんだよ」と言うではないか。……まぁ、時効であろう。
 とはいえ、セトコン、宇宙博覧会と結構盛り上がっていたぼくの感覚からすれば、今回のアシノコンはあまりにも何もないに等しかった。主催者には悪いけど、ほんとうにそれぐらいの期待はずれだった。勝手に期待して勝手にがっかりするなよと言われるかもしれない。
 とはいえ、面白くないって思っていたのはぼくらだけではなかったようで、晩飯を食ったあと、岡田君やその他のSF研究会の仲間と合流し、居場所もないので、自動販売機なんかの前でいきなり車座になってしょうもない話を始めた、岡田君とは知り合いになったばかりという程度の仲だったにもかかわらず、その場で「もし宇宙戦艦ヤマトが中国で作られたら※7」とか即興でネタを作って話をしたり、ゴジラやスターウォーズをネタにSF形態模写をやったりしながら盛り上がっていた。
 そうこうするうちに回りにぼちぼちと見物人が増えはじめ、ぼくらのバカ話を聞いて受ける。受けると嬉しいからさらに何かやる。また受ける。このとき、ぼくは初めて人前に出て何かをするという快感を覚えてしまったわけだ。調子に乗っただけとも言える。
 自動販売機前の芸は夜10時くらいから結局朝方まで、都合8時間くらいやっていたことになる。朝になったら朦朧としていた。朝飯食う気力もないくらいに消耗していた。
 ところがいつのまにかエンディング前に舞台に立つという話になっていた。ぼくらのバカ話を聞いていた大会スタッフが「折角だから、もっと大勢の前でやったら面白い」と考えて無理やり時間を作って話を持ってきたらしい。このときのスタッフが後の「アニメック」編集長の小牧さんだった。それを聞いた岡田君が「時間を三十分もろたからやれるよ」と言う。ぼくが「もうええわ、疲れた」と返すと「何言うてんねん。ここまできたらやらんでどうすんねん」と言う。
 ほんとは「何がここまできたらやねん」と思いはしたものの、そこまで言われてやらないわけにはいかんと舞台に立った。むろんぼくも岡田君も舞台に立つなんて初めての経験だった。でもまぁ、一晩かけてリハーサルを繰り返したようなもんだったから、ネタは練れてるし間もとれてる。自分で言うのもなんだが、受けた。「SF話芸」と言われ、今までそんなことしたやつもいなかったみたいで、「関西芸人」と名付けられ、以後何年かにわたって、あちこちで舞台に立つことになる。
 ずいぶんインパクトが強かったようで、顔と名前が一気に売れた感じだった。
 アシノコンの最後がそんなだったこともあり、ますますSFどっぷりの未来が待っていた。「受ける」ということの気持ち良さを知ってしまったのかもしれない。
のーてんき用語/人物事典
※3
アシノコン
1978年、2泊3日で箱根、芦ノ湖畔で開催された合宿形式のSF大会。参加者数は約400人。参加者による自主企画を中心に据え、ショー的な要素を意図的に抑えた大会だった。
※4
宇宙博覧会
1978年、日本船舶振興会が主催した宇宙開発をテーマとした博覧会。東京、品川が会場となった。
本物のサターンV型ロケットや、当時開発中だったスペースシャトルのモックアップ、月面探査車など、当時の「科学好き」にはたまらない展示物が多数出品されていた。
※5
コスプレ
「コスチューププレイ」すなわち仮装してそのキャラクターになりきる「遊び」である。今でこそ「コスプレ」といえば「コミケ」だが、日本における発祥は間違いなくSF大会である。当時のSF大会では「コスチュームショウ」という名称で仮装ファッションショーをプログラムに入れることも多かった。
※6
豊田有恒
古代史をモチーフとした作品として知られるSF作家。代表作に「パチャカマに落ちる陽」「モンゴルの残光」など。放送作家としてのキャリアもあり、「鉄腕アトム」や「エイトマン」の脚本を手がけていたことも有名。
※7
中国版宇宙戦艦ヤマト
「宇宙戦艦ヤマトを作って乗り込んでいるのが中国人だったら…」というネタの話芸。
「発進の時には銅鑼を鳴らす」とか「砲塔には龍の模様が入っている」とかたわいの無いギャグを織り込みつつ、ヤマトのストーリーを再現する芸。バリエーションも多く、「アメリカ版」や「ロシア版」はもちろん「ウェスタン版」などもある。また形態模写も武田岡田コンビが得意としたネタで、「ゴジラの熱線を受けて溶ける鉄塔」や「宇宙ステーションにドッキングするオリオン号(出典:2001年宇宙の旅)」や、「サンダーバード2号のコンテナから発進して活躍するジェットモグラ」など、映画の名シーンを人間の体で再現する体当たりの芸。他にも「Xウィング対T-Eファイター」「ミステロンドームに突っ込むモゲラ」とか、その場その場で開発しながら芸を磨いていた。

この記事は『のーてんき通信 エヴァンゲリオンを作った男たち』(2002年発行・ワニブックス刊・武田康廣著)からの抜粋再録です。文中の役職や会社名・所属などは2002年当時のものです。