短期連載「のーてんき通信 DAICON3の思ひ出」最終回

のーてんき通信 ダイコン3の思ひ出

「のーてんき通信 DAICON3の思ひ出」は9月30日更新の第8回「オープニングアニメ(後編)」「ダイコン3」「祭のあと」にて連載終了です。短い間でしたが、ご愛読ありがとうございました!
まだ読んでいないという方は、この機会に是非まとめ読みしてくださいね。

「のーてんき通信 DAICON3の思ひ出」の「よりぬきのーてんき通信」は『のーてんき通信 エヴァンゲリオンを作った男たち』(2002年発行・ワニブックス刊・武田康廣著)からの抜粋再録です。


第8回「オープニングアニメ(後編)」「ダイコン3」「祭のあと」

オープニングアニメ・後編
快傑のーてんき オープニングに間に合わなかった手塚治虫さん※1が、夜合宿のほうに合流して、オープニングアニメの話を聞いたらしく「見たい!」と言ってくれた。そこで急遽合宿で再上映もやった。そのとき自己紹介した庵野、山賀、赤井の3人だが、山賀の自己紹介は「山賀です。山に賀正の賀です」と手塚さんの目の前で緊張しながら両手の指をあわせて山の字を作っていた。今でも山賀はそうやって自己紹介している。あとで聞いた話だけれど、赤井と山賀が手塚さんに見せた後、手塚さんが「いろいろキャラがでてるねぇ。ほんといろいろでてるよねぇ。でも、出てないのもあるよねぇ」と感想を話していたが、なんだかやけにキャラのことにこだわるなぁと思っていたら「はった!」と気がついたらしい。そう手塚キャラがひとつも出ていなかったのだ。手塚さんはダイコン4のときはオープニングアニメに間に合うように、わざわざ早くきてくれた上に大会企画にも協力してくれた。ダイコン4オープニングアニメでは手塚キャラはちゃんと出ていた。
 このアニメはアニメ雑誌の『アニメック』※2で紹介されたり、見たやつの口コミで評判を呼んで、「見たい、分けてほしい」という声が大会終了後に結構寄せられた。大会自体も大赤字※3だったので、赤字救済委員会を設立してビデオと8ミリテープを売ることにした。これがまた素人としてはサービス精神旺盛で、わざわざ描き下ろしシールを作ったり、絵コンテをオマケにつけたりした。これが予想以上に売れて、赤字を埋めた上に利益があがった。のちのちこの利益がダイコン4の準備とダイコンフィルム作品の制作に使われることになる。
のーてんき用語/人物事典
※1
手塚治虫
いわずと知れた「マンガの神様」。日本のTVアニメーションの開祖でもある。DAICON3オープニングアニメをいたく気に入って頂いて、スタッフ一同恐縮してしまった。
※2
アニメック
1978年創刊のアニメ専門誌(隔月刊、後に月刊)。発行はラポート(株)。初代編集長は小牧雅伸氏。
先発の大手アニメ誌がタイアップ的な作品紹介記事に終始していたのに対し、創刊当初から、マニアックな視点で掘り下げた作品解説や、読者コーナーの充実などでファンの支持を得た。
アマチュアのイベントフィルムに過ぎなかった「DAICON3オープニングアニメ」を巻頭カラーの特集で取り上げたり、ゼネプロの武田岡田コンビにコラムを書かせるなど、「濃い」雑誌であった。高千穂遥氏が「ガンダムはSFではない」と論じたのもアニメック誌上である。
※3
大赤字
DAICON3では200万円ほどの赤字を出した。
開催前から予測はしていたものの、学生の身には大変な金額だった。
武田はじめメインスタッフの持ち出しだったが、この解消のためオープニングアニメのビデオ販売を実施した。「オリジナルビデオアニメ」が発売される2年前の話である。

ダイコン3
 SFファンとか作家とかが集まってバカ話をする、それが楽しいんじゃないのというのがダイコン3の基本理念だった。ただそのバカ話をなるたけ派手にする、バカ話を実現する、そういう姿勢がダイコン3にはあった。
 スタッフの総勢は80人くらい。大ホールでメインの企画が進行しつつ、分科会※4もあり、ディーラーズルーム※5もありという形だった。ただ基本方針はお客さんを楽しませる、いわゆるショウアップするという、それまでの大会ではなかった路線を打ち出したところが新しかった。この大会が最近主流になっているSF大会の原型みたいになった。
 大ホールの定員1,500人が参加者の最大人数。申込みが多くて春には参加申込みを締め切った。前評判も上々。
 当時はSF雑誌※6も『SFマガジン』以外にもあったし、『アニメック』の編集長もSFファンであったこともあり、SF大会を宣伝できる媒体がわりに多くあったせいだと思う。
 当日、ぼくはとにかく忙しくて、まさに目の回るような状態だった。大会当日に荷物を運ぶために借りたトラックがエンスト。その場にいたスタッフがじっとしていなかった。ただひとり大阪大学SF研に所属していた神村※7だけが、コスチュームショーを見ていた。そのことは20年たった現在も戒めに言い伝えられている。本人は誤解だと主張しているが誰も聞いちゃいない。
 スタッフのほとんどが学生だったから、運転免許を持っているやつが少なかった。そのせいで、実行委員長だったぼくは常に輸送部隊のドライバーを兼任していた。大会終了後に撤収の準備をしているとき、トラック1台ではとても荷物が乗り切らないことが判明した。その場で近所のレンタカー屋へぼくは走った。そこで「ここにあるトラックで普通免許で運転できる一番でかいのを貸してくれ」と言った。店員が指差したのは、4トン半のロングボディのものだった。さすがにぼくもこんな大きな車は運転したことがなかったが、とにかく借りた。会場の搬入口にバックで入れるときは死ぬ思いだった。なんせ誘導する連中が無免許なのだ。これ以後、ぼくは軽四輪から4トン半まで普通免許で運転できるすべての車種を運転することになる。
 また、ダイコン3の特徴のひとつに、ディーラーズルームがある。
 ワールドコンに取材に行った際にオリジナルアイテムを作って売るという発想を持って帰って来ていたぼくらは、ディーラーズルームの充実をはかった。
 実際、ワールドコンに行って、英語がわからなくてもディーラーズルームなら見て楽しめたのだ。とにかくいろんなものを売っている。ファンタジー系の剣を金属から削り出して売っていたりプロのディーラーが出ていたり。当時、日本のSF大会では、プロのお店や出版社がSF大会に出展するっていうのは稀なことだったからとても面白かった。
 ディーラーズルームも物を売っているだけじゃつまらないっていうので、当時のスタートレック※8のファンクラブに頼んで、パソコン(当時はマイコン※9と言っていたけど)のスタートレックのシミュレーションゲームをプレイするためのスペースを作った。マイコンをベニヤと段ボールで作ったコックピット風のセットに組み込んで、スタッフがスタートレックの恰好をしてゲームの説明をする。PC8001を8台並べて、当時マイコンが8台も同じところに並んでいるなんていうのは初めて見る景色だから、なかなか好評だった。
 実行委員会もオフィシャルグッズとしていろんなものを制作販売した。ちっちゃなマスコット(もちろん手作りのやつ)とか、吾妻ひでおさん※10の漫画のキャラである「なはは※11」の頭とか、スタッフの女の子たちは女工哀史のようにノルマを決めてせっせと作ったのだ。まだ「ガレージキット」という名称はなかったが、ポリ樹脂で作ったパワードスーツなど。せいぜい10数種類だったけど瞬時に完売。岡田君はこれで手応えを感じ、「この商売はいける」と後のゼネラルプロダクツ開店の構想を持ったようだ。
 ダイコン3は本当に大成功だった。ぼくは、イベントとしてこういう方向性は大正解だったと確信した。スタッフもかなり満足したと思う。SFショウのあとは「もうこりごりだ」と言って抜けてったスタッフもいたけど、ダイコン3のスタッフはかなり多くがそのままダイコン4へつながっていった。
 自分でも楽しかったし、お客さんもスタッフも喜んでくれたという自負もある。いろいろな意味合いで、ダイコン3は大成功だった。
のーてんき用語/人物事典
※4
分科会
ホールで行われる舞台企画に対して、数十名収容の会議室をいくつか使って複数並行して行われる小規模な企画群をこう呼ぶ。
DAICON3はホール企画と分科会企画の両方を、大会の両日にわたって常時運営した。これは当時のアマチュアイベントとしてはかなり高度な行為だといえる。
※5
ディーラーズルーム
大会の会場内に作られた、同人誌等の即売会場の呼称。さまざまなサークルが自分たちで作った同人誌やグッズを持ち込んで販売する。
SF大会からこのディーラーズルームだけ特化して大きく成長したのが、コミケの発祥である。
※6
SF雑誌
当時、「SFマガジン」、「SF宝石」、「SFアドベンチャー」、「奇想天外」と4誌ものSF専門誌が発行されていた。
現在残っているのは「SFマガジン」のみ(SFアドベンチャーは形を変えて再び発刊されつつあるが)。
※7
神村靖宏
大阪大学SF研に入ったことからDAICON3以降の活動に参加。自主制作映画の制作進行などを担当した。DAICONFILMの活動終焉と同時にNTTに就職し堅気になるかに見えたがオタクの血を押さえられず結局武田に招かれてガイナックスに入社、総務的業務を担当する。武田と同じ誕生日のA型のヤスヒロである。多方面にミーハーなSF、アニメ、特撮ファン。
※8
スタートレック
非常にマニアックなファンの熱烈な支持を集めるTVSFドラマシリーズ。そのファンは「トレッキー」と呼ばれ、SFファンの大きな一分派を占める。
日本では「宇宙大作戦」のタイトルで1969年から放映開始。関西圏では無限ループで再放送が繰り返されていた。
※9
マイコン
DAICON3の前年にNECから発売されたPC8001はマニアの高い支持を得ていた。「スタートレックゲーム」など、素人目には何がどうゲームになってるんだか、説明を受けてもよく判らなかったけれど。
※10
吾妻ひでお
シュールなギャグとキュートな絵柄で1980年代始めに絶大な人気があった漫画家。古今東西のSF作品のネタをマニアックに盛り込んだ「不条理日記」などでSFファンの熱狂的支持を得た。「美少女」「ロリコン」「不条理」をマンガ界に定着させた人物といえる。「不気味」「なはは」など複数作品に登場する個性的なキャラクターのいくつかは、ゼネラルプロダクツでも商品化された。
※11
なはは
吾妻ひでおがさまざまな作品に登場させたキャラクターのひとつ。うつろで大きな目と開きっぱなしの大きな目がチャームポイント。
同じ吾妻ひでおの「不気味」とともに、当時多くのSFファンに認知(支持ではなかったと思う)されていた。
DAICON3オープニングアニメに登場したほか、造形が簡単なことも手伝って、手作りマスコットがSF大会の販売アイテムとして作られたりした。ゼネプロでもクッションなどを製品化している。

祭のあと
 ダイコン3で満足して、燃え尽きた。実現までにいろいろゴタゴタはあったが、ぼくらは日本SF大会を開催し、そして成功させたのだ。だが残ったのは脱力感だった。
 ぼくは5度目の大学2年生の生活に戻った。
 大学に入って、まともに授業を受けたのは1年生の時だけ、2年生になってSF研に入ってからはどんどん授業に出なくなっていた。ようやく自分が望んでた話ができる友達ができて、毎日が楽しかったからだ。
 戻ったといっても、学校には行ってなかったから、当然留年するのは分かっていた。研究室の教授は「このまま居ても卒業できないから、いったん退学して、あらためて再入学してやりなおさないか」とか言うし、親からは「いいかげん真面目に学校へ行け」と言われていた。だけど、ぼくは積極的に考えることをせずSF大会をやる前の生活、ようするに喫茶店に行ってコーヒーを飲みながら小説を読むという、SF大会のない日常を送っていた。実を言うとSFショウとダイコン3で疲れていた。
 もう学校も辞めてどこかに就職しようかと考えて、面接を受けてみたりもした。何だかイベントを成功させたんだから、そんな方面へ進むのもいいかなと思って2つ3つ面接を受けてみたが駄目だった。
 就職先は決まらなかったけど、結局大学はこの年の秋に辞めた。再入学する気はなかった。流され続けた結果、燃えかすになってしまっていた。
 そのままぼくは、やっぱり毎日ブラブラし続けていた。
 ぼくの人生にはこの後も何度か無気力になってしまう時期があって、原因はいろいろだが、これはその最初の無気力期間だった。とにかく何もする気が起こらなかったのだ。
 ダイコン3の準備後半から本部として使っていた3LDKのマンションが大阪の十三※12という場所にあった。のちに映画『ブラックレイン』で撮影場所になったところで、スタッフの植田正治※13という男が1人で住んでいる部屋だ。この植田は大阪大学SF研究会に所属していたのだが、アシノコンの時には高校生で参加していた。本人が後日言うには「僕は絶対にあの連中とつきあわんと心に誓った」と思っていたらしいが、なんとその後SFショウにも参加者としてきていた。結局は、周り巡ってダイコン3のスタッフをすることになった。ぼくは出会ってすぐ植田のマンションに泊まりにいった。それ以後数年間にわたってぼくらの根城となった。ダイコン3の準備は後半からこの部屋を拠点にしていた。だからこそ入り浸っていたのだけど、大会が終わってもぼくはそのままそのマンションに居続けた。ようするに居候だ。大学も辞め、友達のマンションに居候しながら、毎日梅田の喫茶店に出掛けては小説を読み、知り合いが集まればバカ話をするという生活をしていたわけだ。ほんとに無気力で、何かしようという気になれなかったのだ。この毎日のように居酒屋やマンションでお酒を飲んでいた同じ頃、十三の町を1人の外国人が鉄下駄をはいて生活していた。ハリウッドで映画スターになる前の「スティーブン・セガール」である。ぼくも一度だけ十三の商店街を歩くでかい外国人を見たが、あれがセガールだったと思う。その後庵野が自分の映画でセガールの娘さんである藤谷文子を主人公にするとは思わなかった。
のーてんき用語/人物事典
※12
十三
「じゅうそう」と読む。
大阪(梅田)から阪急で一駅、阪急神戸線、京都線、宝塚線の乗換駅で、大阪北部の「交通の要所」。ここにあった植田のマンションは、梅田で飲んで終電を逃しても、歩いてたどり着ける、学生のたまり場としては理想の場所だった。
家が遠方のスタッフや、自宅に帰りたくない学生が常時何人も生活をしていた。
このマンションの存在が、DAICON3終了後も人を繋ぎ止め、次の活動の温床となった。
※13
植田正治
大阪大学SF研に所属していた学生時代、彼が一人住まいをしていた3LDKのマンションは、長らくSF大会や映画製作の拠点としてスタッフが寝起きする場となった。その後、ゼネプロ/ガイナックスとは、独立と合流を何度か繰り返しつつ付き合いが続いている。
武田がファングループ連合会議議長に就くとともに同事務局長に就任、現在も在任中。
その女グセから付いた「あたる」のあだ名で通ることが多い。重度の活字中毒。

この記事は『のーてんき通信 エヴァンゲリオンを作った男たち』(2002年発行・ワニブックス刊・武田康廣著)からの抜粋再録です。文中の役職や会社名・所属などは2002年当時のものです。


終わりに
DAICON3を成功に導いたものの、燃え尽きて灰になってしまった武田。その後のことを駆け足でお伝えしましょう。

武田と一緒にSF大会を開催した岡田氏は、その後日本初のSF専門ショップ「ゼネラルプロダクツ」を大阪に開店しました。武田は岡田氏に誘われその店のスタッフとして働き始めます。
ゼネラルプロダクツで充実した仕事をしていた中、現役のSF研究会から「またSF大会をやりたい」という希望が上がり、彼らは再びSF大会を開催したいと考えました。立候補の前にはやはり根回しが必要です。今回はプロモーション映像でアピールすることにし、82年に自主制作映画のグループ「DAICON FILM」を立ち上げました。このグループには大会スタッフ育成を目的とする側面もありました。立候補は受諾され、彼らは83年に第22回日本SF大会・通称「DAICON4」を開催することになりました。「DAICON4」でも新しく制作したオープニングアニメを上映しました。
ゼネラルプロダクツはSFショップの他に、ガレージキットの即売会「ワンダーフェスティバル」を始めます。このイベントは海洋堂が主催を引き継ぎ今でも続けられています。
ゼネラルプロダクツの活動開始と同じ頃、山賀は劇場用アニメの製作を開始しました。それは後に「王立宇宙軍 オネアミスの翼」として公開されます。この作品のためにアニメ制作会社「ガイナックス」が作られました。
DAICON FILMとゼネラルプロダクツとガイナックスはそれぞれ別の組織ですが、大勢のスタッフが重なっています。赤井をはじめとした「八岐之大蛇」スタッフは、オロチの制作を終えたあとに王立宇宙軍のチームへ合流しました。
ゼネラルプロダクツもやがてガイナックスへ合流します。
ガイナックスは当初からプロとして東京で活動していましたので、ガイナックスへの合流は、大阪で活動していたゼネラルプロダクツ本拠地の移転と、アマチュアとして活動していたDAICON FILMの終息を意味しました。大阪の地を離れるのをよしとしないスタッフもおり、全てのスタッフが上京してガイナックスに合流した訳ではありませんでした。

東京へ活動の地を移した彼らは、王立宇宙軍の制作が終わったあともガイナックスを続けます。ゼネラルプロダクツは東京での活動の後、ガイナックスに合体合流する形で会社をたたむことになりました。
その後のことはみなさんの方がよくご存じかと思います。

これにておしまい。また、会いましょう「のーてんき通信 DAICON3の思ひ出」はこれにてお仕舞です。短い間でしたが、ご愛読ありがとうございました。ガイナックスの次回作品にご期待ください!
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第7回「オープニングアニメ」

オープニングアニメ・前編
快傑のーてんき まぁアニメができるって言っても庵野はセルアニメ※1はやったことがない。しかしスタッフの中にはいろんな人材がいたので情報だけはあった。セルはアニメポリス・ペロ※2で売ってるけど、値段が高いとか。1秒で何枚もセルが必要なアニメで単価が高いセルを買ってたら予算がいくらあっても足りない。そこで、ペロで買ったセルを1枚持って、東大阪のビニル団地※3に行った。「これと同じものありまへんか?」と尋ねたらおっちゃんが「おぉあるでぇ」と言って出してきたのがロールになったビニールシート。ワンロール2,000円。よっしゃよっしゃと買って帰って裁断した。色を塗ってみる。ゼンゼン同じじゃなかった。セルカラーはのるんだけど、乾くとはげる、湿ってるうちに重ねると貼りつく。
 といって代替え品もなく、そのシートで作業は進められた。
 初めてセルアニメを作るのにそんな勝手の悪いものを使ってたんで苦労は倍増。
 制作現場は岡田君の実家である岡田刺繍※4の工場と自宅の空き部屋を借りた。
 動画用紙はB5の計算用紙、タップ※5も手作り、タップ穴も裁断したビニールシートに事務用の二穴パンチであけて使った。
 庵野、赤井、山賀の3人がオープニングアニメ専従で、あと何人かが現場に詰めていた。
 制作の過程は、今我々がプロとしてやっているような完全分業ではなかった。
 岡田、庵野、赤井、山賀あたりが相談して、だいたいの構想を決める。それに沿って庵野、赤井が原動画を担当して、演出と美術を山賀がやる。まぁ演出ってのは、いわゆる今の演出とは微妙に違う作業だろう。何といっても手作りだったのだ。
 あえて言うならプロデューサー岡田、監督山賀、赤井キャラ、庵野メカというところか。あとはそのときそのとき、作業場にやってくるやつにセルにトレスさせ色を塗らせる。撮影も台に三脚を置いてカメラをつけて、タイムシート※6なんてないから、庵野が横に張り付いて、はいヒトコマ、はいフタコマといいながら撮影する。
 81年の4月くらいから設定作業を始めて、セルを塗り始めたのは6月くらいだったかな。結局、アニメの制作は大会当日の朝までやっていた。
 しかし、オープニングアニメ制作作業最大のトラブルメーカーは岡田君だった。ある日、岡田君がアニメスタッフと口論している。その内容は、オープニングアニメのクライマックスで、パワードスーツから狼煙があがり、その狼煙がイデのゲージ※7になるというシーンのことだった。それを岡田君が「このマークはイデのゲージではインパクトが弱い。絶対にオメコマークにするべきである。これは誰もやったことがないインパクトがある。でなければオープニングアニメを作る意味がない」と言い出して譲らないのだ。まったくテコでも動かない岡田君に対して、スタッフが横にいた和美さん※8(このときは岡田君と結婚まえなので、天野和美さん)に「何とか言ってやってよ」と頼んだ。和美さんは、「そんなに誰もやったことがないのんがやりたいのやったら、ウンコの早食い競争をしたらええねん。インパクトあるで」と言い放った。このセリフに岡田君は一言も言い返せず、無事オメコマークは阻止されたわけである。岡田君が無茶を言うのはそのときだけでなく、その後何度もあったが、それ以降こういった無茶が出るたびに、みんなは「ウンコの早食い」と呪文のように唱えた。
 大勢の学生スタッフをカンヅメにしてセルを塗らせたが、実際にアニメを作ったのは庵野、山賀、赤井の3人だといえる。もちろん素人団体の仕事だ。作業は大幅に遅れ、結局完成したのは大会当日の朝だった。
 そしてオープニングで上映。大反響。うれしかった。これで掴みはばっちりと思った。
のーてんき用語/人物事典
※1
セルアニメ
当時、アニメファンの間では自分たちでアニメを作りたい!という欲求が高くなっていた。
紙に書いた絵をそのまま撮影するペーパーアニメは、8ミリカメラさえあればさほどの出費もなく個人でも制作が可能だが、セルアニメはそうは行かない。セルや絵の具は高価だし、膨大な枚数のセルに色を塗る作業はとても個人でこなせるものではない。
経験の無いこととはいえ、いきなりセルアニメを制作するというのは、かなり無茶な試みだったと言える。
庵野らにとっても、DAICON3OPアニメは初めて挑戦するセルアニメだった。
※2
アニメポリス・ペロ
アニメショップの元祖。東映の系列映画館にくっついてお店があった。
キャラクターグッズや、アニメで使用したセル、設定資料などを販売しており、あまたのアニメショップの原型といえる。
当時は生セルやアニメカラーを一般向きに販売している唯一の店だった。しかし、あくまで1枚づつの「セル画」を描くための画材であって、アニメーションを制作するだけの枚数を購入するにはあまりに高価だった。
※3
東大阪のビニル団地
東大阪は、中小の町工場が多く集まった地域である。
ビニル製品を扱う工場だけでもひとつの工場群を形成するほどで、そういった工場の集まりを○○団地と呼ぶ。
素人の一見客でも、ちゃんと商売相手にしてくれるのでありがたい。
本来のアニメセルの素材はアセテートフィルムだが、もちろんそんなことは知らずに見つけた代替品は、薄いビニルシートたっだ。この素材は、一枚一枚が互いに貼りつきやすく、絵の具の乗りも悪い。
※4
岡田刺繍
岡田斗司夫の実家が経営する刺繍会社。大阪府立大近くの交通の便のよいところにあり、広い倉庫スペースもあったため、DAICON3オープニングアニメの制作にあたっては、作業場所として1フロアを借り受けて多くのスタッフがここに寝泊まりした。DAICON4の際にも場所提供をしてもらっている。
ゼネラルプロダクツはこの会社から出資を受けて開店し、1984年の株式会社化までは岡田刺繍の一部門だった。
※5
タップ
作画や撮影の際に、動画用紙やセルの位置を固定するためのガイド。
プロで使用するものは、薄い定規のような金属板の表面に3つの出っ張りがあり、セルや動画用紙にあいた穴にはめ込んで位置あわせをする。
3つ穴のあいた市販のセルや動画用紙は高価で使えなかったため、計算用紙に市販の書類パンチで穴をあけて動画用紙とした。
その穴にあわせてタップも、ボール紙に鉛筆の軸を輪切りにしたものを貼りつけて作った。
もちろん、穴が少ないために精度は悪いが、実用には耐えた。
※6
タイムシート
アニメを撮影する際の撮影指示書。
ひとコマごとに撮影すべきセルの番号やセルの重ね方などを記入した表。
作画と撮影が完全に分業しているプロの世界では必須のアイテムだが、自主制作の世界では存在が知られていなかった。
※7
イデのゲージ
「伝説巨神イデオン」の劇中で、超エネルギー「イデ」が発動する際に操縦席正面にある円形のゲージにふしぎな記号が現れる描写がある。
オープニングアニメの一カットに、このイデのゲージが光るところがあったが、岡田はそのイデの記号を女性器を表すマークに置き換えることを強固に主張した。
※8
岡田和美
岡田斗司夫とは幼馴染でSFショウの頃からスタッフとして活動に参加してきた。ゼネプロ開店直後1982年岡田と結婚。唯一の「岡田使い」として暴走しがちな岡田を制御するための安全装置の役割を果たしてきた。
ゼネプロ~ガイナックスでは経理・総務担当として実務を切り回した。岡田退職後もガイナックスに留まり、広報業務などを担当している。
小柄な身体で天然ボケをカマすキャラクターは万人に愛される。結婚前は「アマノカズミ」さんだった。

この記事は『のーてんき通信 エヴァンゲリオンを作った男たち』(2002年発行・ワニブックス刊・武田康廣著)からの抜粋再録です。文中の役職や会社名・所属などは2002年当時のものです。


番外通信 『DAICONFILM版帰ってきたウルトラマン』『八岐之大蛇の逆襲』編

前回に引き続き、DAICON FILM作品の紹介をいたします。
今回は『DAICONFILM版帰ってきたウルトラマン』と『八岐之大蛇の逆襲』です。

『DAICONFILM版帰ってきたウルトラマン』

1983年3月完成/8ミリフィルム作品/上映時間約26分

DAICONFILM版帰ってきたウルトラマン
「大日本」と同じく、1983年開催のSF大会「DAICON4」のプロモーション活動の一環として制作された作品です。円谷プロの本家ウルトラマンに愛着が深かった庵野秀明を中心に、アマチュアの域を越えた完成度の高い作品となりました。
ハードなストーリーと精緻なミニチュアワークによる特撮で構築された世界観、そこに人間の素顔のまま登場するウルトラマンというギャップがこの作品の妙味です。

発進せよ! 地球が危ない 退避する隊員たち

「MATアロー1号発進命令(増殖怪獣バグジュエル登場)」

 外宇宙からの隕石「ラムダ1」の落下により、平和だった地方都市・ヒラツネ市が一瞬にして消滅した。
 調査に向かったMATは、ラムダ1とともに飛来した怪獣バグジュエルと遭遇する。その戦闘の中、バグジュエルの攻撃を受けたイブキ隊員のMATアローが墜落炎上する。
 通常兵器をものともしないバグジュエルに対し、地球防衛軍上層部は熱核兵器による攻撃を決定した。イブキ隊員の生存を信じるハヤカワ隊員(実はウルトラマン)は核攻撃に反対するが、謹慎を命じられてしまう。
 翌朝、イブキ隊員の実父であるイブキ隊長自らが核弾頭を装備したMATアローで発進した……。

これが皆さんお待ちかねの庵野ウルトラマンだ! カラータイマーさえあればウルトラマンなのです 頑張れ、ウルトラマン!
「DAICONFILM版帰ってきたウルトラマン」~よもやま話~
隊員集合 「DAICONFILM版帰ってきたウルトラマン」のMATの制服は、庵野総監督のデザイン。ウルトラ警備隊と機動戦士ガンダムの地球連邦軍の制服を足して2で割ったようなデザインです。監督を始めとした当時のスタッフが何を愛していたかがよくわかるデザインですね。
今と違いコスプレ衣装専門店や自作用のアイテムが揃ったお店などはなかった時代です。これらの衣装は庵野監督がヘロヘロっと描いたデザイン画を元に、普通の服屋さんにオーダーしました。隊員の一人を演じているスタッフの家業が服飾関係で、彼の知っていた服屋さんでした。
二週間ほどで無事衣装があがってきて、受け取ったスタッフたちは大興奮! 喜び勇んで着てみると……なんだか、体に合わない!
その瞬間、みんなハッと気が付きました。
仮縫いのために代表で服屋さんへ赴いた人(服屋さんを知っていたスタッフ)の体型が、ちょっと不自由なバランスだったのです(分かりやすく言うと短足胴長)。主人公のハヤカワ隊員は、上着はあまるはスボンはつんつるてんになってしまうはで、悲惨な状態に。やむなくブーツ、ベルトや小物類でバランスを取ることになりました。
それでも本格的に作られた衣装を着るのは、スタッフ全員生まれて初めてのこと。みんなおおはしゃぎでした。
庵野監督は隊員役でもないのに、わざわざ自分用のものを作ってもらい、嬉しそうにいつまでも普段着にしていたとか。

「DAICONFILM版帰ってきたウルトラマン」メインスタッフ
総監督 庵野秀明
「トップをねらえ!」「ふしぎの海のナディア」「新世紀エヴァンゲリオン」監督等
特技監督 赤井孝美
ゲーム「プリンセスメーカーシリーズ」、実写作品「大特撮巨編『ネギマン』」監督/小説「『星界』シリーズ」挿画等

詳しいキャスト・スタッフなどの情報はこちらもご参照ください。


『八岐之大蛇の逆襲』

1985年12月完成/16ミリフィルム作品/上映時間72分

八岐之大蛇の逆襲

DVDパッケージ描き下し画像 作画:開田裕治 DVDのお求めはこちらから!

DAICON FILMの総力を結集して作られた、本格特撮怪獣映画。
山陰の地方都市に甦った八本首の大怪獣「ヤマタノオロチ」と防衛隊との攻防を中心に、それを取り巻く人々の人間模様をコミカルなタッチで描きます。

監督の赤井孝美は自らの生まれ故郷・米子市の市街地を大量のミニチュアで完全再現。後に平成ガメラの特技監督となる樋口真嗣とともに破天荒な特撮大活劇を作りあげました。
オロチと防衛隊に蹂躙され爆発炎上する米子市街が主役とも言える、正統派特撮映画です。

桐原、田子、米子駅での邂逅 走り回るTVスタッフたち オロチの操縦を依頼する宇宙人たち

あらすじ

 日本の古代神話に描かれた「ヤマタノオロチ」は、実は2000年前に宇宙人が地球へ送りこんだ侵略兵器だったのだ!
 ひょんな事からオロチの体内に取り込まれてしまった若き古生物学者・桐原祥子は、ピントのボケた宇宙人たちにオロチの操縦者として任命されてしまう。操縦者を得た宇宙人たちは2000年ぶりに活動を再開。以前は失敗した地球侵略を、再び試み始める。
 古代怪獣の発見に狂喜する考古学者の田子教授、スクープをものにしようと走り回るTVディレクター達、そして初の実戦に大はりきりの毛利大佐率いる防衛隊。人々の奇妙なバイタリティーにあふれる真夏の米子市街で、祥子の操る100m超の大怪獣「ヤマタノオロチ」と、総力体制の防衛隊がぶつかり合う。大破壊の幕が切って落とされた!

桐原、オロチの操縦席にて 侵略兵器、始動! 米子は大混乱
「八岐之大蛇の逆襲」~よもやま話~
撮影メイキングオロチの撮影といえば、「やけど」。この作品を制作する頃にはDAICON FILMスタッフの火を扱う技術がかなり向上しており、防衛隊を襲う大火球爆発から電線がショートする小さい火花まで、使用する火薬量の加減や上手く爆発させるコツなどしっかり掴んでいました。
そうなると、撮影はどんどん大胆になっていくもの。目前の爆発で役者はおでこにやけどし、裏方スタッフの前髪は縮れ毛に。ビル爆発シーンの撮影では、がれきから上がった火が特殊効果スタッフの袖を燃やしてしまいました。夏の夜の撮影中、あまりの蚊の多さに虫に灯油をかけて燃やそうとした赤井監督は、手の平を燃やしてました(これは直接手で灯油を扱うのが悪いですね……)。
特撮とは、火と友達になることと見つけたり(良い子は真似しちゃいけないよ!)。

八岐之大蛇の逆襲

VHSビデオ発売時宣伝ポスター画像 作画:開田裕治

「八岐之大蛇の逆襲」メインスタッフ
監督 赤井孝美
ゲーム「プリンセスメーカーシリーズ」、実写作品「大特撮巨編『ネギマン』」監督/小説「『星界』シリーズ」挿画等
特技監督 樋口真嗣
特技監督、ビジュアルクリエイター。平成ガメラシリーズ、新世紀エヴァンゲリオン等。次に控えている作品は2015年公開予定「進撃の巨人」実写版

詳しいキャスト・スタッフなどの情報はこちらもご参照ください。


続くよ!!番外編はこれにて終了です。次回は引き続きのーてんき通信 DAICON3の思ひ出をお送りします。第7回「オープニングアニメ」に続きます。
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番外通信 『快傑のーてんき』『愛國戦隊大日本』編

いつもGAINAX NETおよび「のーてんき通信 DAICON3の思ひ出」をご愛読いただき、ありがとうございます。
武田の思い出話を楽しみにしてる皆さまには申し訳ないのですが、今回と次回はDAICON3の後に作られた『DAICON FILM』の4つの作品をご紹介します。当時のスタッフたちの雰囲気が少しでも伝われば幸いです。
今回は『快傑のーてんき』『愛國戦隊大日本』の2本をお送りします。

※DAICON FILMとは
DAICON FILMとは
1981年に大阪で開催された日本SF大会DAICON3と、1983年に開催された同大会DAICON4の間に作られた自主制作映画のグループです。同じ頃に作られたSF専門ショップ「ゼネラルプロダクツ」や、のちに立ち上げられた弊社ガイナックスのスタッフが多数参加していました。

『快傑のーてんき』

「快傑のうてんき」 ―危うし少女、メカケの恐怖―
1982年8月完成/ビデオ作品/上映時間約15分
「快傑のーてんき2 純愛港町篇」
1984年3月完成/8ミリフィルム作品/上映時間約22分
「快傑のーてんき in USA」
1984年6月完成/ビデオ作品/上映時間約4分
「ロールプレイングのーてんき in ソウル」
1988年8月日本SF大会MIGCONにて上映/ビデオ作品

彼の名は快傑のーてんき
東映のヒーロー物「快傑ズバット」をモチーフとしたビデオ作品。
当時グループのリーダーだった武田康廣のキャラクターを全面に押し出した、短いながらもインパクトのある怪作です。当初主演を嫌がっていた武田をよそに、同タイトルで4本のエピソードが作られました。『映像作品を2本同時制作する合間を縫って「息抜きに」もう一本作ってしまった』という1作目の制作裏話に、当時のスタッフたちのバイタリティが感じられます。

さすらいの私立探偵早川健。その正体は…… 助けを求められる早川 バッカーの手が迫る

「危うし少女、メカケの恐怖」

 さすらいの私立探偵、早川健は、親友の飛鳥五郎を悪の組織バッカーに殺害された過去を持つ。飛鳥を殺した犯人を探し、彼は今日もさすらい続けるのだ。
 さすらいのさなかに立ち寄ったとある町で、早川はヤクザにからまれていた姉弟を助ける。姉の名前はユリ、弟の名前は太郎。ユリをメカケにしようとする市会議員・黒川(実はバッカーの幹部M)の嫌がらせだった。ユリを手に入れるため、新たにヤクザの沢村と刃物使いの用心棒”ヤッパのジョー”を差し向ける黒川。早川は彼女を守るためにジョーと対決し、「ナイフ投げ勝負」で見事に勝利する。しかしその直後、早川は沢村とその手下たちの銃弾に倒れ、ユリは男たちに連れ去られてしまう。彼女はこのまま黒川のメカケにされてしまうのか? 危うし、ユリ!
 その時、バイクの爆音とともに桃色のスーツに身を包んだヒーローが姿をあらわした!!

「純愛港町編」

 早川は可憐な花売り・ゆかりに出会う。ゆかりの美しさに目をつけたバッカーの死神伯爵が手下を使い彼女をさらおうとするが、早川に助けられことなきを得る。自分を助けてくれた早川に感謝するゆかりとの交流は、さすらいの旅を続ける早川にひとときの安らぎをもたらすのだった。
 しかしなんという運命のいたずらか、ゆかりのかつての恋人は、バッカーとのーてんきの熾烈な戦いに巻き込まれ命を落とした男だったのである!
 新たに現れた死神伯爵の手下に捕らわれるゆかり。死神伯爵に呼び出された早川に、悪の科学者ドクトルマッドが作ったメカのーてんきが戦いを挑む! 強敵・メカのーてんきに、のーてんきは勝てるのか? 捕らわれたゆかりの運命は……?

「のーてんき in U.S.A」

 さすらい続ける早川健の旅路は、はるか海を越えアメリカはロサンゼルスまで伸びていた。チャイニーズシアターの前でものーてんきの勇姿はひときわ映える。そんな異国の街角で、金髪の少女を暴漢から救う早川。感謝のキスを浴びた早川は、またはるかなさすらいの旅へと戻っていくのだった……。

「ロールプレイングのーてんき in ソウル」

 1988年に群馬県で行われた第27回日本SF大会・通称MIGCONで上映された、観客の選択でストーリーが変わる異色のインタラクティブムービー。特殊な形態の上映ゆえ、その後見る機会がほとんどなくなってしまった幻の作品。

強敵現る 異国の地にて…… 今日も彼はさすらい続けるのだ
「のーてんき」 ~よもやま話~
  • 「快傑ズバット」を元にした作品を作ろうと言い出したのは、ズバットのファンだった”オタキング”こと岡田斗司夫氏。主演に武田を推したのは、赤井・澤村といったDAICON FILMの中心だった面々でした。武田の”のほほんとした顔立ち”を使わない手はないという理由だそうです。
  • 1作目の監督がやたらと多いのは、撮影現場ごとに監督が変わっていたから。撮影や制作の経験をスタッフに積ませるためという目的もあったがゆえの珍事でした。
  • 用心棒”ヤッパのジョー”を演じているのは赤井孝美。他の作品でも、DAICON関係者は悪役演技がはまる人が多いです。大阪の芸人気質ゆえでしょうか。
  • 「純愛港町篇」で写真に早川と2人で写っている飛鳥五郎は岡田斗司夫氏。DAICON時代をよく知る人には「武田&岡田のツーショット写真というだけでかなり面白い」とか(当時のスタッフ談)。
  • 「のーてんき in U.S.A」はワールドコンLA大会参加のため渡米した際に、ついでに撮影された作品。早川が助ける金髪少女を演じていたのは、武田夫人でSF作家の菅浩江さんです。つまり大がかりなのろけですね。
  • 2001年に幕張メッセで行われた第40回日本SF大会では、武田本人によるのーてんきがコスチュームショウに登場! 当時3歳だった娘さんと親子共演のダブルのーてんきでした。

詳しいキャスト・スタッフなどの情報はこちらもご参照ください。


『愛國戦隊大日本』

1982年8月完成/8ミリフィルム作品/上映時間約19分

1983年のSF大会「DAICON4」への立候補にあたって、プロモーションの一環でその前年に発表された作品です。

「スーパー戦隊シリーズ」をモチーフに制作された、オリジナル「戦隊ヒーロー物」アクション映画。悪の組織「レッドベアー」が送りこんだ怪人「ミンスク仮面」に対し、アイカミカゼ・アイハラキリ・アイスキヤキ・アイテンプラ・アイゲイシャ、五人の愛國戦隊が大日本ロボを駆って立ち向かいます。

タイトルやキャラクター名が表すとおり、右も左も等しく笑い飛ばすパロディ色の強い作品。爆発シーンや大日本ロボと巨大化怪人の戦いなど、素人ばなれした特撮も見所です。

愛國戦隊参上 戦闘!! アイゲイシャ♡

「びっくり!君の教科書もまっ赤っか」

 愛國戦隊大日本のリーダー神風猛は、常日ごろから肉体や精神の鍛錬を怠らない。
 トレーニングの合間に書店に立ち寄った猛は、店頭の書籍が全て「赤い」本にすり替えられていることに気付く。
 デスマルクス総統率いる悪の組織「レッドベア-」の洗脳五ヵ年計画・教科書赤化作戦が開始されたのだ。
 おりしも郊外の造成地では、行動隊長ツングースクキラーと怪人ミンスク仮面が戦闘員ハラショマンたちに教科書の運搬を指示していた。急行する愛國戦隊!! 変身した大日本とレッドベア-との壮絶な戦いの幕が切って落とされた!!

レッドベアー一行 特撮は爆発だ 大日本ロボ出動!!
「大日本」 ~よもやま話~
  • 大日本はスタッフ育成の目的もあり撮影された「のーてんき」とは違い、小道具・衣装・キャスティングなど細部までこだわって制作された作品です。アマチュアとは思えない爆発シーンにもスタッフのこだわりが見てとれます。
  • 撮影されたのは、当時は空き地だった大阪大学医学部病院建設予定地や、大阪城公園・万博公園など。撮影中に見学していた人も多く、「放送はいつからやの?」などと聞かれることも。それに対し「来年4月からです」と適当なことを答えたDAICONFILMスタッフは、罪深いことをしたものです。
  • 戦闘員ハラショマンの衣装は、一見大阪芸大のジャージに見えます。しかしよく見ると胸の表記が“大阪芸大”ではなく“大阪芸人”になってます。
  • ナレーションは特撮スタッフでもある庵野秀明。某ジブリ作品に先んじること30年前、既にナレーションで声の出演を経験していたのでした。大日本ロボの中の人もしています。
  • 大日本の主題歌は、某スーパー戦隊の主題歌のメロディにオリジナルの歌詞をのせた、いわゆる替え歌。この作品を見て以来替え歌の方が刷り込まれ、元の歌を歌えなくなる人が続出したとか。今でもカラオケで大日本バージョンを歌う人がたまにいます。やはり罪深い作品です、大日本。
  • そのモチーフゆえ、本作品は「反社会主義」「右翼的」などと評されることもありました。作品をちゃんと鑑賞すれば、この作品はSFファンが好む「ナンセンス」な「バカ話」であることが分かるのですが、タイトルや概要だけ見た人には誤解されやすいかもしれません。制作されたのは東西冷戦の真っただ中、ロシアがソ連だった頃でありました。

「愛國戦隊大日本」メインスタッフ
監督 赤井孝美
ゲーム「プリンセスメーカーシリーズ」、実写作品「大特撮巨編『ネギマン』」監督/小説「『星界』シリーズ」挿画等
特撮 庵野秀明
「トップをねらえ!」「ふしぎの海のナディア」「新世紀エヴァンゲリオン」監督等

詳しいキャスト・スタッフなどの情報はこちらもご参照ください。



第6回「正式立候補」「ダイコン3開催決定」「庵野、山賀、赤井との出会い」

正式立候補
快傑のーてんき ダイコン3をやろうと決めて、すぐ次の大会で立候補※1した。
 もちろん今度は正式な手続きを経たし、根回しもした。
 ダイコン3※2は81年開催ということで計画を進めていった。
 SFショウのスタッフは関S連が中心だった。だけど、イベントというのは面白いもので、現在に至ってもそうなんだけど、終わったときに「またやりたい」というやつと「もうこりごりだ」というやつがでてくる。この20数年間イベントをやるたびに同じことが起こる。もちろんこりごりだって仲間は離れていく。まさに集合離散は世の常である。こればっかりは現在も同様だ。
 関S連やSFショウのスタッフ集めに大学のSF研を回っているときに、一緒にイベントをやろうと言っているだけで、「プロパガンダはやめてくれ」って言うやつがいた。「なんやそのプロパンガスってのは!」って思った。プロパガンダって言葉の意味も知らなかったんだけど「アホかこいつは」って思った。
 あと「イベントをやるのは嫌だというわけではない、手伝うのもやぶさかではないけど、ぼくらはSFファンの王道をいきたい。つつましくファン活動をしたい」みたいなことを言うファンもいた。彼らから見るとぼくらのやり方は異端だったのだろう。
 まぁ、そんな中から集まったSFショウのスタッフだから、イベントが終わって離れていくやつは結構な人数だったような記憶がある。それに対し20年間付き合い続けているスタッフもいる。人それぞれだ。あのときのぼくらはイベントの成功が大事で、スタッフ間の摩擦とか、人の感情とかはあんまり気にしてなかった。
 岡田君のキテレツな発言、澤村君の強引な進め方、いろんな摩擦や軋轢が起こった。「レポートや試験と、大会とどっちが大事やねん!」というような発言が当たり前に出てくる。ともかくぼくらは、SF大会に向けてもうやる気満々だった。
 最初はダイコン3も関S連を中心にやるつもりで動きはじめたけど、そんなこんなもあって、結局、各大学のSF研の中から有志が集まった傭兵軍団てなおもむきになった。それがダイコン3実行委員会の陣容だ。
 ダイコン3の前年、ぼくらはアメリカのボストンで開催されたワールドコン※3に取材を兼ねて参加した。日本SF大会の原点をこの目で見て、持ってこれるテイストは持ってこようという目論見だ。それと同時にディズニーランド※4も見た。まだ東京ディズニーランドは開園していない頃の話だ。お客に楽しんでもらえる大会にする、エンターテインメント部分の参考にするのが目標だった。
 当然、ぼく自身は3度目の2年生をやることになってたけど、全然気にもしてなかった。
のーてんき用語/人物事典
※1
立候補
SF大会は、開催を希望するグループの立候補を受けて、前年(現在は2年前)の大会のファングループ連合会議の席上で決定される。
他のグループとのバッティングを避け、スムーズに賛同を得るためにそれなりの根回し活動もやったほうが良いようである。
※2
ダイコン3
1981年8月23・24日大阪森之宮ピロティホールで開催された。参加者約1,500人。
セルアニメとして制作されたオープニングアニメ、大会史上類を見ない厚さのプログラムブック、オリジナルグッズの製作販売、ホールと会議室企画の本格的な並列進行などなど、エポック的要素の多い大会でもある。
※3
ワールドコン
日本SF大会のお手本となった世界SF大会。1939年から第2次大戦中の中断を除いて現在まで毎年開催されている。
武田らが参加したのは1980年にボストンで開催された「ノリスコン2」。
主に米国内で開催されるが、4年に1度は国外で開催される。2007年には日本で開催すべく現在誘致活動も行われている。
※4
ディズニーランド
会場内でさまざまな催しが並行して開催され、参加者に最大級の楽しみを与えるべく、スタッフを高いレベルで統率する…といったコンセプトを学び取りたいと考え、米国のディズニーランドを「視察」した。
ダイコン4の際にも、オープン間もない東京ディズニーランドへ大勢のスタッフで訪れた。
ダイコン4のコンセプトだった「異世界観」はディズニーランドから受けた影響が大きい。

ダイコン3開催決定
 翌年のトーコン7※5で大会開催の立候補をし、開催が正式に認められた。
 1年前のごたごたでコネクションができたファングループ連合会議の門倉さんや、宇宙軍の井上さんからいろいろ話を聞いて、根回しと誘致活動をやった。
 キャンペーングッズも作った。最初はワッペンを作ろうかとかいろいろアイディアがあったのだけど、予算的な折り合いとインパクトを考えて煙草(マイルド7)のパッケージをパワードスーツのイラスト入りにしたものを配った。
 イラストは近大SF研の漫画家志望の北山君※6で、彼がバズーカが煙草で指がライターになってる奴を描いてくれた。ちなみにこの煙草はダイコン3でオフィシャルグッズとして販売もした。
 こんどは手順を踏んで滞りなく、日本SF大会をやれることになった。
 このSF大会の愛称は、3回目の「大阪コンベンション」で「ダイコン3」と悩むことなく決まっていた。
 さて、開催は決まった、ではということで、小松左京さんに名誉実行委員長をお願いしに行った。大阪で開催するんだ、地元の大御所に名誉実行委員長をお願いするのが当然だと思っていた。ところが、あっさり断られてしまう。「おれはせん。その代わり、かんべむさし※7を紹介してやるから、かんべにやらせろ」とは小松さんのお言葉。
 結局ダイコン3の名誉実行委員長はかんべさんにお願いした。
 とはいうものの、「小松さんに名誉実行委員長を!」という思いは心の中にそのまま残っていて、20年後に幕張で開催した40回大会の「SF2001」では小松さんに引き受けてもらった。
 実はダイコン3が終わったとき、またSF大会をやろうという話が出た。そのときには「20年後で十分や」などと冗談を言っていた。場所は大阪ではなかったけど、本当に2001年に開催することになるとは正直驚いた。
のーてんき用語/人物事典
※5
トーコン7
1980年8月、東京の浅草公会堂で開催された第19回の日本SF大会。参加者数1,300人。
翌年のDAICON3の開催が確定する大会でもあり、DAICON3のスタッフたちは、この大会で誘致活動に精を出した。
※6
北山仁士
近大SF研の後輩。SFショウのときからスタッフとして参加。DAICONFILMの活動中やや距離を置きながらも協力し続けてくれた。漫画家志望ではあったが、現在は実家の自動車工場に勤務。動かなくなった車のレストアに熱意を燃やす。
※7
かんべむさし
軽妙な文体で幅広いジャンルを手がけるSF作家。大阪在住の縁でDAICON3の名誉実行委員長をお願いした。86年「笑い宇宙の旅芸人」で日本SF大賞受賞。

庵野、山賀、赤井との出会い
 日本SF大会開催の権利を得て、準備を進めていたある日、オープニング映像をどうしようかという話になった。
 SFショウのオープニングは借り物の映像を流したが、できるならダイコン3はオリジナルの映像を作りたいという意見が出ていた。
 そこで、岡田君が、「ウルトラQの上映会※8で知り合った永山君※9という男がアニメ作れるやつがいると言っている」という話を出した。永山君というのはいろいろと芸達者な人物で、後のゼネプロのガレージキットの解説文を書いたり『八岐之大蛇の逆襲』というダイコンフィルムの特撮映画の準主役も演じた。阪神大震災の年に交通事故で他界してしまったが、生きていれば今でも良い付き合いができていただろう。
 永山君の紹介で、京都のSF喫茶ソラリス※10で庵野※11、山賀※12と会った。ぼくと澤村君の2人で会いに行ったんだと思う。彼ら2人は大阪芸術大学※13に入学したばかりだった。
 当時のぼくはアニメにはあまり興味がなかった。たいした期待もせず、初めて会った庵野に「アニメ作れるっていうけどどんなんが出来るの?」と聞いたらその場で庵野はB5の計算用紙を取り出して絵を書きはじめた。
 しばらくして計算用紙をパラパラとやる。そこではパワードスーツ※14が走っていた。
 本当に驚いた。こいつは凄いと思った。ただでさえ線が多くて複雑な形をしているパワードスーツを描くだけでも難しいのに、それを動かして見せるんだから。
 もちろんパラパラマンガを見たことがないわけではなかったけど、目の前で制作過程を見せられたのは初めてだったし、とにかくあっという間に描いたにしては出来が良かったのだ。
 これでオープニングアニメを作ろうと盛り上がった。
 こうやって盛り上がっているぼくらの横で、山賀が突然、座っていた椅子ごと後ろにひっくり返って倒れた。騒然となった。「どないしたん? 大丈夫か?」と助け起こしたら、山賀いわく「しゃっくりを止めるために息を止めていたら、そのまま息をするのを忘れてた」。
 パワードスーツを動かす男と息を忘れて倒れる男、実にインパクトの強い2人とのファーストコンタクトだった。山賀に関しては、息を止める以外にも面白い話がある。中学生の頃、知能指数テストがありその後先生に呼ばれて怒られたそうである。先生いわく「お前、ふざけるのもいい加減にしろ。こんな数字ではまともな教育はうけれんぞ」。何かと聞けばテストの結果、山賀の知能指数は40だということである。普通100ぐらいが標準らしいので、40という数字は問題外だという。山賀本人はまったくふざけていなくて、考えに考えて時間がかかっての結果だという。親まで呼ばれて心配されたそうだから迷惑なものである。
 当然ながらぼくらの間では「おーい、40」と呼ばれていた。
 赤井※15はのちにアニメを手伝ってもらうために山賀が連れてきた。赤井は最初、そんなわけのわからんやつと会わなくてもいいやと思っていたらしいけど、具体的な話を聞いてみて、言葉は悪いけど、大学でチマチマ勉強してるよりこの連中が金をもってきてくれるなら、請け負って仕事したほうが自分にとってプラスになるという判断をしたらしい。これは山賀、庵野も同様の気持ちだったようだ。彼らは大学1年にして、お金を出してもらって映像作品をつくるという行為をしていた。まぁ制作実費だけでノーギャラだったけど。
 ぼくがSF研に入ったあと、将来のビジョンはなく、なんとなく流されながらその場の勢いだけでいろいろやって来たのに比べて、庵野、山賀、赤井には将来に対する明確な意思と、自分の才能で世間をわたっていくというビジョンがあった。その才能は、そのときから20年以上付き合って一層理解できるようになってきた。
のーてんき用語/人物事典
※8
ウルトラQの上映会
「ウルトラQ」は「ウルトラマン」の前年に放映されていた円谷プロダクション制作の特撮TVシリーズ。白黒作品であったため再放送の機会が少なく、有志による上映会が開かれていた。何しろ家庭用ビデオがそれほど普及していなかったため、このような上映会はファンの間で定期的に開催され、けっこう集客もあった。
※9
永山竜叶
庵野秀明と同郷で、高校時代にアニメ制作グループ「SHADO」を結成していた。
関西の大学へ進学後、知り合った武田等に、庵野を紹介した。
カメラマンとライターを志し、ゼネプロ製品の解説書なども手がける。アザラシのごとき体型と風貌で「N氏」の愛称で親しまれ、「八岐之大蛇の逆襲」では怪しい考古学者の役を演じた。
阪神大震災の報道写真でも成果を挙げたが、1995年、交通事故で他界。
※10
SF喫茶ソラリス
京都にあった喫茶店。店内にはマスターの趣味でSF映画のポスターや宇宙船の模型であふれていた。
近隣のSFファンの溜まり場となっており、永山もこの店でバイトをしたりしていた。
武田は、京都に住んでいた菅浩江を車で送って行くことが多く、この店にもよく立ち寄っていた。
※11
庵野秀明
映画監督、ガイナックス取締役。
大阪芸術大学在学中にDAICON3オープニングアニメの製作に参加する。
メカアクションや爆破などのエフェクトアニメーションを得意とし、宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」で巨神兵をアニメートして話題となった。
ガイナックス設立に参加し、オリジナルビデオアニメ「トップをねらえ!」でプロ初監督。「新世紀エヴァンゲリオン」のヒット後、「ラブ&ポップ」「式日」など実写作品にも意欲的に取り組んでいる。
宇宙戦艦ヤマト、ウルトラマン、仮面ライダー、ガンダムをこよなく愛する、正統派のアニメ・特撮ファン。普段は「ナウシカ」の巨神兵のモデルとなった緩慢な動作で歩いているが、ウルトラマンと仮面ライダーの振りマネをする瞬間だけは機敏になる。
肉や魚を食べないためベジタリアンと勘違いされがちだが、タマネギやピーマンなど嫌いな野菜も多い。単なる強度の偏食家である。
※12
山賀博之
映画監督、現ガイナックス代表取締役。新潟出身。「王立宇宙軍」監督。
大阪芸術大学在学中に、庵野秀明、赤井孝美とともにDAICON3オープニングアニメを製作。
ガイナックスの設立に参加し、若干22歳にして劇場用アニメ「王立宇宙軍」の監督をつとめた。小学生の頃から「俺は有名人になる」と宣言し、新潟の実家の向かいのオバさんには「あなたの家は『山賀博之記念館』の駐車場にします」と言ってあるらしい。
「サンダーバード」の人形に例えられることの多い風貌からは、何を考えているのか読み取りにくい。
1993年ガイナックス社長に就任。監督業は「王立宇宙軍」から14年間遠ざかっていたが、「まほろまてぃっく」「アベノ橋魔法☆商店街」と立て続けに監督作を発表している。
※13
大阪芸術大学
大阪府南部、南河内郡にある芸術系の私立大学。
この映像計画学科で庵野、赤井、山賀が同級生として出会ったのが、ガイナックスの出発点の一つとなった。
前述の近畿大学とは対照的に、駅からは遠く、田畑に囲まれた丘の上に学舎がある。しかし、学内で日常的に映画撮影やパフォーマンスが行われているため、コスプレで授業に出るくらいでは、他人の目を引くことは出来ないらしい。
※14
パワードスーツ
R・A・ハインラインのSF小説「宇宙の戦士」に登場する強化戦闘服。
小説中にはそのデザインについて言及がないが、日本で出版された文庫本には「スタジオぬえ」によるイラストが掲載され、そのデザインは後のアニメ等のデザインワークに大きな影響を及ぼした。「パワードスーツ」は「強化服」の一般名詞だが、日本のSFファンの間ではこのスタジオぬえデザインのものを指す。
「DAICON3オープニングアニメ」はこの複雑な形状の「パワードスーツ」をメインキャラクターとして登場させ、庵野秀明により作画でバリバリ動かして見せたことが話題となった。
※15
赤井孝美
ゲーム監督、イラストレーター。鳥取県米子市出身。現ガイナックス取締役。
大阪芸大で庵野、山賀と出会い、DAICON3オープニングアニメの製作に参加。
小柄な体躯でイラスト、造形、映画、特撮、ゲームと多方面に才能を発揮するマルチ天才。
ガイナックスのゲーム分野進出に先鞭をつけ、「育成シミュレーションゲーム」の元祖「プリンセスメーカー」を製作した。
1994年ガイナックスから独立して設立したナインライブスを活動の場としていたが、2001年ガイナックスの取締役に就任。TVアニメ「星界の紋章」のキャラクターデザインなどさまざまな分野で辣腕を奮う。

この記事は『のーてんき通信 エヴァンゲリオンを作った男たち』(2002年発行・ワニブックス刊・武田康廣著)からの抜粋再録です。文中の役職や会社名・所属などは2002年当時のものです。

続くよ!!第7回「オープニングアニメ」に続くのですが、その前に番外編です!
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第5回「第4回SFショウ開催のきっかけ」「初めてのイベント」「日本SF大会開催への道」

第4回SFショウ開催のきっかけ
快傑のーてんき 無事に「初舞台」も終え、大阪方面に帰る仲間たちとバス停でバスを待っていたとき、みんな口々に「最後は面白かった」「最近の大会はイマイチだ」「ぼくらでもできるんとちゃうか」「そうやな」「ぼくらもSF大会しようか」と、まぁ何とも図に乗った発言を繰り返していた。ぼくはといえば、実はもう眠くて眠くて。ぼおぉーっとバス停のベンチに座っていた。しかし、このときの図に乗った発言がSF大会開催へとぼくらを動かしていくことになったのは確かだ。
 大阪へ帰り着く頃には、ぼくもすっかり日本SF大会を主催する気になっていた。
 まず最初に近大SF研で「SF大会をしたい!」って言ったら、先輩たちは異口同音に反対した。ようするに最初から日本SF大会のような最大級のイベントを開催するのは無理だというわけである。最初は小さなイベントからこつこつと始めて、イベントに慣れてきてからSF大会を開催すればよろしいということらしい。それに対するぼくらの考えは「ぼくらは日本SF大会を開催したいのであって、小さな催しをしたいのではない」ということだった。だから、SF大会に関しては、先輩たちとはそれ以降あまり相談しなくなってしまった。しかしそのために、日本SF大会開催の準備はその後とんでもない問題にぶちあたることになる。
 そのあと関S連に話を持ち込んだ。紆余曲折はあったけど最終的に、ぼくの所属している近大SF研を中心にしてやるということで話はまとまった。紆余曲折とは、関S連内部のSF研メンバーからももちろん反対意見や慎重論が出たからだ。しかし、ここで袂を分かつわけにはいかない。反対や、慎重なメンバーを説得してまわった。大阪府立大学SF研究会の撫佐君※1はぼくに企画書を書くことを勧めた。企画書なんてものは書いたことがなかったが、とにかく書いてみた。一応理科系の勉強をしていたので、実験のレポートの要領で書いたような記憶がある。まだ、ワープロのなかった時代だったのですべて手書きである。書きあがったSF大会開催に関する企画書を読んで撫佐君は「まさか武田さんにこんなものが書けると思わなかった」といった。「それってどういうこと?」と思ったが、そのときは「撫佐君の協力が得られる」という「ほっ」とした気分だった。そんなこんなでようやく日本SF大会開催に向けて関S連の意見はひとつにまとまった。
 会場を押さえ、『SFマガジン』に告知を打った。ところが大変な問題が持ち上がった。ファングループ連合会議※2というところから連絡があったのだ。正式名称「日本SFファンクラブ連合会議」といい、全国のSFファングループが多く加盟している。野田昌宏氏や柴野拓美氏※3らが1965年に設立した団体である。ぼくは2001年までファングループ連合会議の議長を務めたが、当時はその存在すら知らなかった。日本SF大会はファングループ連合会議の承認を受けた団体が主催するというシステムなのだが、もちろん知る由もなかった。
 これが準備段階で先輩たちの協力が得られなかったことの一番の問題点だった。ぼくら若手にはまったくSFファンの横のつながりや情報網がなかったからである。
 「困る」と当時の連合会議議長の門倉さん※4に言われた。「来年の日本SF大会は名古屋で開催されることになっています」と言う。愕然とした。
 よくよく聞けば、ぼくらが間違っていたのは明らかだ。門倉さん立会いのもと名古屋まで次の主催者と話しにいって、そこは「わかりました」と退いた。でもそのときにはもう会場も押さえてあって、どうしようかと頭を抱えていた。そこへ岡田君が入っていた『宇宙軍』※5というサークルの代表である井上博明さん※6が「野田さんが最初の主催をした「SFショウ」※7というイベントがある。このイベントはすでに3回開催されているのでSFファンにも認知されているから、この名前を借りてやったらどうか」という提案をしてくれた。
のーてんき用語/人物事典
※1
撫佐郁夫
大阪府立大学SF研に所属し、関S連の活動にもずいぶん協力してもらった。モノ書き思考が強かったようで、関S連の連絡誌発行にも尽力した。
※2
ファングループ連合会議
正確には「日本SFファングループ連合会議」。国内のSFファングループの連合組織で、グループ相互間の交流そのものを目的としている。
1965年の柴野拓美氏らの呼びかけによって設立された。
年に1度、日本SF大会の場で総会が開かれ、日本SF大会の開催権の管理と、大会で贈呈される「星雲賞」の決定を行っている。
「議長」と「事務局長」がそれぞれ1名任命されており、グループ間の連絡調整にあたっている。
※3
柴野拓美
日本SFファンダムの長老的人物。日本最初のSF同人誌「宇宙塵」を刊行し、同誌から多くのSF作家を輩出した。1962年に委員長として第一回の「日本SF大会」を開催し、1965年には「日本SFファングループ連合会議」を創立するなど、日本SFアマチュア活動の基礎を築いた。現在でもほとんどの日本SF大会、世界SF大会に参加し、ファンダムの国際交流にも力を注いでいる。
翻訳家として子隅黎のペンネームで多数の訳書がある。
※4
門倉純一
武田らがSF大会を志した時点でのファングループ連合会議議長を務めていたSFファン。本業はコンピュータ会社の社員だが、音楽・オーディオに造詣が深く、コレクターとしても有名。さまざまなSF関係のイベントでAV関係の企画を行っている。
※5
『宇宙軍』
SF作家・翻訳家の野田昌宏氏のファンクラブ。
氏が「宇宙軍大元帥」を自称しているため、会員には「軍曹」「二等兵」などの階級を与えられる。
TVプロデューサーとしての野田氏に協力することも多い関係からか、イベント活動を盛んに行っていた。
小説の創作活動と無縁であるあたりも、DAICONグループと符合し、協力しあうことも多かった。映像・出版・ゲーム等の業界関係者を多く輩出している。
現在でも「SFクリスマス」を定期開催するなど活動を継続している。
※6
井上博明
アニメーションプロデューサー。SF作家野田昌宏氏のファンクラブ「宇宙軍」の活動を通じて武田らと知り合う。
手塚プロダクションからアニメーション業界入りし、岡田に誘われてガイナックスの設立に参加した。「王立」「トップ」でプロデューサーをつとめたが、その後ガイナックスを離れる。10年におよぶ没交渉ののち、現在所属するA.I.C(アニメインターナショナルカンパニー)でガイナックスとアニメーションを共同制作するなど、ふたたび仕事仲間となっている。
「よぉ○○ちゃん、元気してるぅ?」が挨拶言葉の業界人。現在も「宇宙軍」のリーダーとして活躍中。
※7
「SFショウ」
1973年に野田昌宏氏が開催したSFイベント。当時のSF大会などのファンイベントでは、参加者の自主企画や作家のパネルディスカッションなど静的でアカデミックな企画が多かった。それに対しSFショウは、TVプロデューサー野田氏が腕を振るい、その名のとおり舞台を主としたエンタテインメント性の高いイベントとして企画されている。第3回まで、野田氏を中心に東京で開催されてきたが、野田氏の好意で4回目もSFショウの開催を許してもらった。

初めてのイベント
 井上さんとは、岡田君が入会していた宇宙軍の大阪例会に行ったときに初めて会った。ぼくは宇宙軍に入会していなかったが、「東京から井上さんという宇宙軍の責任者がくるから」というわけで例会に参加し紹介してもらった。てなこともあって、東京まで野田さんに会いに行って許可をもらい、「第4回SFショウ」という看板を借りてイベントを開くことになった。ちなみに井上さんはのちに設立されるガイナックスの創立メンバーにもなる。
 この時期に同様にこの宇宙軍に参加してぼくと知り合った人物がもう1人いる。澤村武伺※8である。この澤村君は変わった経歴を持っていて、お父さんが人形浄瑠璃の振付師で、芸人の家に育ったという。大映映画の『大魔神』※9の子役としてスタジオに入ったところ、巨大な大魔神を見て怖くて泣いて出演できなかったとか、『マグマ大使』※10の子役候補だったなど、小さな頃は子役として活躍したこともあるそうだ。もっとも澤村君は役者はいやでその道にはいかなかったらしい。澤村君は宇宙軍で知り合った岡田君から関S連の存在を聞き、わざわざ自分の大学にSF研究会を設立して関S連に入会してきたという行動力のある人物だった。澤村君と知り合ったことがその後のぼくらの精力的な活動の大きなポイントになる。ここ一番の度胸がいいというか、「役者やのう」というのか。初めてのイベントで舞台周りのプロの専門家に対してやや気後れしていたぼくたちだったが、澤村君はお父さんの知り合いの舞台の専門家の名前を出してあっという間に舞台裏のイニシアティブを握った。あとあと澤村君に「さすがに舞台のことは詳しいなあ」と言ったところ「僕は舞台のことは何も知らん。親父の知り合いの名前をだして押し切っただけや」と言っていた。あっぱれである。
 さて、肝心のSFショウであるが、主催が関S連でステージ中心のイベント。関西芸人も出たけど、手品とか落語とかSF創作バレエとか、まぁ「なんでこんなもんまで」みたいなものも詰め込んだイベントだった。アシノコンでぼくらが不満を感じた部分を解消するため、お客さんを満足させる演出を主眼にした結果だった。
 オープニング※11には、船舶振興会から借り出した『ムーンウォークワン』というアポロ11号のドキュメンタリーフィルムのロケット発射シーンをオープニング映像として使った。
 そのとき来ていた小松左京さんが「こいつらこんな映像どっから持ってきたんだ」って驚いたそうだ。じつは前年に船舶振興会が開催した宇宙博覧会に、いろいろと宇宙関係、特にNASAのものが多く所有されており、無料の貸し出しもしていたのを知っていたので普通に借りてきただけなのである。アシノコンの前に見た宇宙博覧会とこんなところでつながっていたのは面白い出来事である。
 第4回SFショウは「星群の会」にも手伝ってもらっていて、その会でその後ぼくの奥さんとなる菅浩江※12と知り合った。といっても、そのとき菅浩江は14歳で、まだ中学3年生。もちろん知り合っただけである。しかし、大学生になってからSFファン活動に参加したぼくからしてみれば、中学生でSFファン活動、というよりプロの作家を目指して創作をしている人間がいるということには驚いたもんである。くどいようだけど、このとき彼女と付き合うようになるとは想像すらしなかった。
 このSFショウには「スタジオぬえ」からも参加してもらった。それもコスチュームショーに出演である。その後マクロス(後述)やゼネラルプロダクツ開店にともなっての協力等で現在に至るまでいろんな意味でよき先輩となっている。特に高千穂遥氏※13には個人的にも付き合いがあり夫婦ともなにかとお世話になっているが、この時点ではまったく考えさえしなかった。
 そんなこんなで終了したSFショウの結果には満足した。お客さんの評判も上々だった。だけどSF大会はやっていない。ぼくらはダイコン3に向けて動き出した。79年のことである。
のーてんき用語/人物事典
※8
澤村武伺
ガイナックス元代表取締役。
「宇宙軍」の活動を通じて岡田と知り合い、SFショウの中心スタッフとなる。現場での押し出しが強く、SF大会やDAICONFILMの活動においては強力な推進役だった。1983年追手門大学卒業後、野田昌宏氏のTV制作会社「日本テレワーク」を経てゼネラルプロダクツ入社。いったんはゼネプロを退職するが、数年後岡田に招かれてガイナックスの代表取締役に就いた。2000年ガイナックスを退職。
「王立宇宙軍」ネッカラウトのモデルとなった人物。
※9
『大魔神』
大映製作の特撮時代劇。身の丈8メートルの魔神像が、虐げられた農民を救うために生命を得て動き出す。
緻密に作られたミニチュアの破壊シーンが、特撮ファンの語り草である。
※10
『マグマ大使』
手塚治虫のマンガを原作としたピープロ製作のSFTVドラマシリーズ。宇宙からの侵略者ゴアの操る怪獣を、地球の守護者アースが生んだロケット人間マグマ大使が迎え撃つ。山本直純による音楽が小気味よい。
※11
オープニング
SF大会ではDAICON3の数年前から、オープニングセレモニーのために映像を上映することが多くなった。大会の「掴み」とすることが目標であろう。既存SF作品のコラージュのようなものや、コンピュータグラフィックの実験作のようなものなど形式は定まっていない。この映像を自分たちで製作するとなれば、開催側にとってはスタッフのモチベーションを当日まで引っ張る旗印ともなる。
1981年のDAICON3では、庵野秀明らの参加でセルアニメーション「DAICON3オープニングアニメ」を製作し、話題となった。
※12
菅浩江
SF作家にして武田康廣の妻。
高校在学中に17歳で短編「ブルーフライト」でプロデビュー。「メルサスの少年」「そばかすのフィギュア」で星雲賞受賞。「永遠の森 博物館惑星」では2001年の日本推理作家協会賞を受賞した。日本舞踊の名取りでもある。SFショウ以来、武田の係わったSF大会ではスタッフとして奔走している。愛娘とともに京都在住で、武田は単身赴任状態である。
※13
高千穂遥
スタジオぬえ所属の小説家。「クラッシャージョウ」「ダーティーペア」の両シリーズで知られる。
アニメに対する想いも熱く、評論の舌鋒は鋭い。1980年アニメック誌上で「ガンダムはSFではない」と宣したことは当時のアニメ界にセンセーションを巻き起こした。
何かと武田とは懇意で、ガイナックス周辺でお見かけすることが多い。

日本SF大会開催への道
 ショウをやったおかげで、SF大会をやれるという自信も、根回しのためのコネクションもできたし、はからずも先輩らの言っていた「経験」も積むことになった。何よりSFショウは日本SF大会のための最高のリハーサルになった。
 本音を言えば、いきなりSF大会を成功させる自信はあったのだけど、確かに開催してみなければわからないことも多かった。
 その頃のぼくらの原動力は、東京のファン憎し、ファングループ連合会議憎し、東京もんにまけてたまるかって気持だった。
 当時出会った東京のファンっていうのは、なにかというとすぐに、東京の地の利で作家とか出版社の人間と親しいことを鼻にかけているような人物が目立った。そう見えた。一番頭に来たのは、ぼくらが何か言うと、「あぁ、それね」などと言うことだ。「何でも知っている、ぼくは知らないことはありません」的な態度に出るのがたまらなく嫌だった。おまけにすぐ人を見下したような態度をとり、自分が優位に立たないと気がすまないような発言ばかりが目立つ人物も多かった。まぁ当時、ぼくらもそうだけど、SFファン自体が幼稚だったのではないだろうか。SFファンの論争自体がすぐ子供の喧嘩みたいに興奮したものになっていったのもそういう理由だからかもしれない。
 どちらにしろ、関西のファンの中でもぼくらは、古い言い方をすれば「新人類」に見えたようで孤立気味だった。別にぼくらが相手かまわず人にかみついて回ってたわけではないんだけど、ある意味ツッパリに見えていたのかもしれない。ツッパってたつもりはまったくなかったんだけど、今から振り返って思い出せばかなりツッパっていたかなあ。
 話が逸れた。
 SFショウは本家の日本SF大会を食うくらいのつもりでやった。当時から「SF大会なんでもありなんでしょう? SFって何でも受け入れる度量があるんでしょ?」という考えがあったから、古いSFファンから「こんなもんSFじゃない」※14と当時言われていたアニメや特撮を積極的に取り上げたりした。当時のスタッフの多くがすでにSFファンとアニメファンが混在していたことも影響している。そのせいでますます先輩たちとの距離が広がったみたいだけど、逆にプロの人たちは、ぼくらに好意をもってくれてたようだった。「こいつら無茶苦茶やけど、えらいがんばってるな」って感じで。
 小松左京さんが「おまえら面白いから使ってやろう」ってことで「大フィル祭り※15」の裏方に呼んでくれた。「大フィル祭り」というのは大阪フェスティバルホールでやる大阪フィルの公演で、その舞台裏の小間使いみたいなことをやった。もちろん運営の中枢にいたわけじゃない。だけど大きなホールの舞台裏の空気を肌で感じ、かなりためになったと思っている。指揮者の朝比奈隆氏も生で見られたし、なによりも「小松さんに認められた」という思いが強かった。
のーてんき用語/人物事典
※14
「こんなもんSFじゃない」
SFファンという人種は物事が「SF的」であるか否かに非常にこだわる。
その定義自体にも多論があるが、その論争こそがSFファンのアイデンティティであるためさらにタチが悪い。「センス・オブ・ワンダー」があるかどうかが問われるが、その言葉自体はそれ以上に定義困難なのだ。多分にあまのじゃく的な評価が下されることが多く、「あの作品は確かに良くできているが、SF的にはてんで駄目だ」というのがSFファンの常套句である。逆に、目新しいことは何でも面白がってやろうという気質から、何でもかんでも「SF的だ」と評する一面もある。
※15
大フィル祭り
小松左京ら大阪在住の文化人が中心となって「大フィル(大阪フィルハーモニー交響楽団)」をもっと世に知らしめることを目標にイベント的なコンサートが企画された。地元の市民に「もっと交響楽に親しんでもらおう」という啓蒙的な一面もあった。
SFショウの成功で小松氏に気に入られた武田らは、舞台の裏方でこのイベントの手伝いなどをした。

この記事は『のーてんき通信 エヴァンゲリオンを作った男たち』(2002年発行・ワニブックス刊・武田康廣著)からの抜粋再録です。文中の役職や会社名・所属などは2002年当時のものです。


第4回「SFイベントとのファーストコンタクト」「関西芸人」

SFイベントとのファーストコンタクト
快傑のーてんき ローカルコンは、日本SF大会とは別に地方のファングループが地元で開催するイベントだ。ローカルコンべンションの略ね。年に1度の日本SF大会とは別に小規模なファンイベントが全国のあちこちで開催されていた。
 行ったのはゴールデンウィークに一泊二日の日程で、香川県で開催された「SFフェスティバル78(略称セトコン)」というイベント。
 具体的な場所の記憶はあやふやだけど、確か栗林公園の近くの国民宿舎みたいなところを貸し切りにして開催されたイベントだったと思う。ぼくらのようなファンはもちろん、デビューして間もない夢枕獏さん※1が来てパネルディスカッションをやったり、同人誌でバリバリに活動しているBNFがいたりした。うちの後輩の後藤さんがそんな人たちに混ざって舞台に出ているのを見て、あらためて感心した。
 知らない人間がいたらどこがSFのイベントなんだと思われるかもしれないけど、四国らしく讃岐うどん早食い競争があったり、広間で勝手に車座になってバカ話に花を咲かせたりした。
 夜になると酒も入り、ますますヒートアップ。こっちの女性の集団がオタク話で盛り上がっているかと思えば、あっちではひたすらまじめにSFについて論議している。そうかと思えば古本を持ち込んで売ってる奴がいたりして、不思議な雰囲気を醸しだしていた。そしてぼくはその雰囲気が嫌いじゃなかった。いや、どっちかっていうと馴染める雰囲気だったのだ。
 そう、このイベントでぼくはその後のぼくの人生に大きく影響を与える人物と出会う。
 岡田斗司夫※2、のちにSF大会やゼネプロ、ガイナックスを一緒にやることになるその男は最初、関S連がらみの友人から「今度、うちの大学に武田さんそっくりなやつが入ってきた」という話だけを聞いていた。大阪電気通信大学の大西君というのがその友人で、彼もこのイベントに参加していて、岡田君を紹介してくれた。
 その当時はまだオタクという言葉がなかったんだけど、第一印象はまさしく「こいつオタクだ」という感じだった。「まるで女性のように長く伸ばした髪、変に熱っぽい語り口。彼がぼくに似てるんか?」そう思った。
 まぁ似てるっていわれれば似ているかもしれない。けどうれしくないし、そのときはそんなに話をするでもなく。親しい友達になったわけではなかった。
 それはともかく、ローカルコンがこれだけ楽しいんだから、日本SF大会はもっと楽しいに違いないってんで、すで申し込んでいたその夏の第17回日本SF大会、通称アシノコンにも大きな期待をもって参加した。
のーてんき用語/人物事典
※1
夢枕獏
SF作家。「キマイラ」シリーズ、「魔女狩り」シリーズなど、幻想的作品を多数執筆。「陰陽師」は一大ブームを巻き起こした。釣り、登山などアウトドアの活動でも知られエッセイや旅行記の著作も多い。
デビューまもない頃からイベント等でお会いすることも多く、以来親しくして頂いている。
※2
岡田斗司夫
株式会社オタキング社長。
1978年に出会って以来、武田の人生にもっとも大きな影響を与えた人物。
1982年、SFショップ「ゼネラルプロダクツ」を開店、1983年株式会社ガイナックスを設立し社長に就任した。
ガイナックス退職後は、東京大学非常勤講師(1992~1997)を勤めるなど「オタク文化」を論じて注目を集めた。
現在は作家やテレビコメンテーターとして活躍中。著書に「ぼくたちの洗脳社会」「オタク学入門」など。

関西芸人
 さてアシノコン※3である。
 日本SF大会はもともとがアメリカでやっている世界SF大会(ワールドコン)みたいなのを日本でもやろうってことで始めたイベントで、第1回は東京の目黒で開かれた。大会には愛称というか略称が、これもワールドコンに倣ってつけられていて、~CONというのが定番。17回大会は芦ノ湖畔で開催されるのでアシノコンという。ちなみに第1回大会は東京の目黒で開催されたのでメグコン。のちにぼくらが開催するのがダイコン。大阪でやるから大コンというわけだ。
 香川のイベントで期待を膨らませたぼくは、東京経由で芦ノ湖へ向かった。
 なにせ夏休みの真っ最中である。住んでいる大阪から東京の品川で船舶振興会主催の宇宙博覧会※4をSF研の仲間と一緒に見てから芦ノ湖に向かおうという大名旅行を計画したのだ。
 まぁ大概のSFファンの例に漏れずというか、大阪万国博覧会以降、ぼくは宇宙とかロケットとかがますます大好きになっていた。宇宙博覧会は月着陸船とか月面探査車とかサターンロケットとかをアメリカから持ってきて展示しているから、それを見て更にSF大会で盛り上がろうという予定だった。今考えるとそれはかえってよくなかったかもしれない。
 アシノコンは二泊三日の大会で、ローカルコンと違い、プロの作家や編集者なども大勢参加していた。
 ファンとプロが近いSF界といっても、東京と違って大阪にいるとそうそう作家と親しくなれる機会は多くない。SF大会は普段交流できないような人々と同じ空間を共有できるというので期待はいや増すばかり。
 ところが実際に参加してみると、なんだか楽しくない。1日目、パーティーもあって作家さんのそばで話も聞けた。これはうれしい。でも、他には? 何だかおかしい、こんなはずじゃなかったのに。それがそのときのぼくの感想。「入れ物は用意しました。みんなあとは適当にどうぞ」って感じがして、ぼくとしては不満だった。SFが足りないというか主催者側のホストとしての配慮が行き届いていないというか。せっかくの3日間をどっぷりとSF漬けにしてほしかったのだ。大会初心者に対するフォローがないとも言えたし、知り合いだけで盛り上がっている雰囲気が感じられて、結局ぼくらも仲間うちで固まってしまう。だから2日目の昼間なんかは、SF研の仲間たちとロープウェイに乗ったり、ようするにSF大会に来ているのに、その辺を観光して歩いてたというわけだ。観光自体を大会企画として狙っていればそれなりに面白いと思うが、同じ釜の飯を食うというか、同じ体験を共有するということが重要なことだと思う。
 このときのパーティーで、せっかくなんでコスプレ※5しようってことで(もっともこの時代まだコスプレという言葉はなく、仮装って言っていた)トイレからトイレットペーパーを盗んできて仲間の一人の体にまきつけ、ペーパーの芯を二つに切って目の部分に貼り付け、「スター・ウォーズのタスケン・レイダー」と言い張った。そのとき仮装した仲間の体のペーパーを「変なの」と言いながら千切り取る子供がいた。「こら!」と、その子供の頭を張り飛ばした。ところが、横に居た人が驚いて「その子豊田有恒先生※6のお子さんだよ」と言うではないか。……まぁ、時効であろう。
 とはいえ、セトコン、宇宙博覧会と結構盛り上がっていたぼくの感覚からすれば、今回のアシノコンはあまりにも何もないに等しかった。主催者には悪いけど、ほんとうにそれぐらいの期待はずれだった。勝手に期待して勝手にがっかりするなよと言われるかもしれない。
 とはいえ、面白くないって思っていたのはぼくらだけではなかったようで、晩飯を食ったあと、岡田君やその他のSF研究会の仲間と合流し、居場所もないので、自動販売機なんかの前でいきなり車座になってしょうもない話を始めた、岡田君とは知り合いになったばかりという程度の仲だったにもかかわらず、その場で「もし宇宙戦艦ヤマトが中国で作られたら※7」とか即興でネタを作って話をしたり、ゴジラやスターウォーズをネタにSF形態模写をやったりしながら盛り上がっていた。
 そうこうするうちに回りにぼちぼちと見物人が増えはじめ、ぼくらのバカ話を聞いて受ける。受けると嬉しいからさらに何かやる。また受ける。このとき、ぼくは初めて人前に出て何かをするという快感を覚えてしまったわけだ。調子に乗っただけとも言える。
 自動販売機前の芸は夜10時くらいから結局朝方まで、都合8時間くらいやっていたことになる。朝になったら朦朧としていた。朝飯食う気力もないくらいに消耗していた。
 ところがいつのまにかエンディング前に舞台に立つという話になっていた。ぼくらのバカ話を聞いていた大会スタッフが「折角だから、もっと大勢の前でやったら面白い」と考えて無理やり時間を作って話を持ってきたらしい。このときのスタッフが後の「アニメック」編集長の小牧さんだった。それを聞いた岡田君が「時間を三十分もろたからやれるよ」と言う。ぼくが「もうええわ、疲れた」と返すと「何言うてんねん。ここまできたらやらんでどうすんねん」と言う。
 ほんとは「何がここまできたらやねん」と思いはしたものの、そこまで言われてやらないわけにはいかんと舞台に立った。むろんぼくも岡田君も舞台に立つなんて初めての経験だった。でもまぁ、一晩かけてリハーサルを繰り返したようなもんだったから、ネタは練れてるし間もとれてる。自分で言うのもなんだが、受けた。「SF話芸」と言われ、今までそんなことしたやつもいなかったみたいで、「関西芸人」と名付けられ、以後何年かにわたって、あちこちで舞台に立つことになる。
 ずいぶんインパクトが強かったようで、顔と名前が一気に売れた感じだった。
 アシノコンの最後がそんなだったこともあり、ますますSFどっぷりの未来が待っていた。「受ける」ということの気持ち良さを知ってしまったのかもしれない。
のーてんき用語/人物事典
※3
アシノコン
1978年、2泊3日で箱根、芦ノ湖畔で開催された合宿形式のSF大会。参加者数は約400人。参加者による自主企画を中心に据え、ショー的な要素を意図的に抑えた大会だった。
※4
宇宙博覧会
1978年、日本船舶振興会が主催した宇宙開発をテーマとした博覧会。東京、品川が会場となった。
本物のサターンV型ロケットや、当時開発中だったスペースシャトルのモックアップ、月面探査車など、当時の「科学好き」にはたまらない展示物が多数出品されていた。
※5
コスプレ
「コスチューププレイ」すなわち仮装してそのキャラクターになりきる「遊び」である。今でこそ「コスプレ」といえば「コミケ」だが、日本における発祥は間違いなくSF大会である。当時のSF大会では「コスチュームショウ」という名称で仮装ファッションショーをプログラムに入れることも多かった。
※6
豊田有恒
古代史をモチーフとした作品として知られるSF作家。代表作に「パチャカマに落ちる陽」「モンゴルの残光」など。放送作家としてのキャリアもあり、「鉄腕アトム」や「エイトマン」の脚本を手がけていたことも有名。
※7
中国版宇宙戦艦ヤマト
「宇宙戦艦ヤマトを作って乗り込んでいるのが中国人だったら…」というネタの話芸。
「発進の時には銅鑼を鳴らす」とか「砲塔には龍の模様が入っている」とかたわいの無いギャグを織り込みつつ、ヤマトのストーリーを再現する芸。バリエーションも多く、「アメリカ版」や「ロシア版」はもちろん「ウェスタン版」などもある。また形態模写も武田岡田コンビが得意としたネタで、「ゴジラの熱線を受けて溶ける鉄塔」や「宇宙ステーションにドッキングするオリオン号(出典:2001年宇宙の旅)」や、「サンダーバード2号のコンテナから発進して活躍するジェットモグラ」など、映画の名シーンを人間の体で再現する体当たりの芸。他にも「Xウィング対T-Eファイター」「ミステロンドームに突っ込むモゲラ」とか、その場その場で開発しながら芸を磨いていた。

この記事は『のーてんき通信 エヴァンゲリオンを作った男たち』(2002年発行・ワニブックス刊・武田康廣著)からの抜粋再録です。文中の役職や会社名・所属などは2002年当時のものです。


第3回「SF研との出会い」「関西学生SF研究会連盟」

SF研との出会い
快傑のーてんき 2年生になったとき、新入生向けの勧誘ポスターを見つけて、ようやくSF研に入会できた。ここでようやくSFの話※1をできる大勢の仲間とめぐり合うことになった。
 ぼくは自分で結構な量の本を読んでると思ってたけど、SF研に入ると、まぁこれが驚くべきことに先輩たちは僕以上にむちゃくちゃな量を読んでいる。話をしてみればとにかくいろんなことを知っていて、ひとつの話からあっちこっちいろんな方向へ飛んでいってはまた元に戻り、また別の方向へいく。もうただ話をしているだけなのに楽しくて楽しくてしかたがなかった。もうSF研に入り浸り状態。と言っても大学の公認団体じゃなかったので部室もなく、喫茶店のハシゴを繰り返していたが、いつも最終的には「サンセットイン」※2という大学の正門近くにある喫茶店に落ち着いた。どのくらい落ち着いたかというと、20年たった現在もこの「サンセットイン」がSF研の例会場所になっているのだ。この前久しぶりに「サンセットイン」の人々と会ったのだが、当時小学生だった娘さんがすでに大学を卒業していたのには、ほんとうに時間の経過を感じた。ちなみにお約束なので、その娘さんには「昔は一緒にお風呂に入ったじゃないか」と言っておきました。でもこの時代、こういったなじみの喫茶店があるということは日本全国のSF研やSFサークルではあたりまえのことだっだようだ。
 SF研に入ってからの大学生活はただただひたすら楽しかった。仲間たちはひと癖もふた癖もあるやつらばかりだった。
 たとえば水野※3という今は警官をしているひとつ後輩がいた。こいつはSF小説はもちろん好きで読んでいるけど、それ以上に映画が好きで沢山観ていた。当時公開されてた『リビングデッド』、いわゆるゾンビ映画がどうしたわけか大好きで、その映画の話ばかりしている。で、短絡的だけどゾンビというあだ名がつく。
 たとえば三輪※4という後輩は、SF以外には落語が好きで、ネタ振りをするとすぐ落語を始めてしまう。三輪は後にゼネプロの取締役を一時務めることになる。
 たとえば先輩(当時でもうOBだった)の岡本安司※5という人がいる。ヤッシとか、やっさんと呼ばれていたけど、この先輩はファンダムのSF大会等で司会やしゃべくりで有名だった。意外に思われるかもしれないが、ぼくは人前で話をするのが苦手で赤くなってしまう。そんなぼくの人前でのしゃべくりの師匠に当たるのがこのやっさん。
 それ以外にもアルゼンチン帰りの先輩(でも同学年)の池田さん6※とか、新入会員のころから顔が栗饅頭そっくりという理由だけで、20年以上も「クリマン」と呼ばれ続けている後輩(現在ガイナックスにいる)外山※7とか、どちらかといえば、変人に近い連中ばかりだった。こういった怪しさは当時どこのSF研や漫画研究会、ミステリー研究会でもやっぱり同様であったらしい。
 SF研の頃はファン活動がしたいというようなことより、SFの話をできればよかったと思う。いや、むしろSFという同じ趣味を持つやつが集まっての馬鹿話がメインだったかもしれない。
 ところがSF研にぼくと同時期に入った1年先輩の後藤さん※8という人は違っていた。この人は京都にある創作グループの『星群の会』※9に入っていて、自分でも小説を書いていた。ぼくが出会った初めての「プロ作家になりたい」と言っているSFファンだった。というより、自分のビジョンを自ら人に語って聞かせる人物に人生で初めて出会ったといえる。これは結構、ぼくに衝撃を与えた。後藤さんは本当に顔が広くて『星群の会』だけじゃなく、大阪以外の地方のSFファンダムとか、当時のいわゆるBNF(ビッグネームファン)※10みたいな人たちとも交流があった。その後藤さんがある日ぼくに「関西近辺の大学のSF研の連絡網みたいなのを作りたいと思ってる。おまえも手伝ってくれんか?」と言うわけだ。ここから急転直下。SF研に入り浸りで授業もさぼり気味だったぼくの、ますます学校に行かない日々が始まることになった。というか、これこそがぼくのその後の20数年間への第一歩だったかもしれない。
のーてんき用語/人物事典
※1
SFの話
特にSF小説の評論をしあうわけではない。同じ趣味を持ったもの同士で、他の人々には敬遠されがちな話題で盛り上がることが楽しかった。
要はマニアックなバカ話である。
※2
「サンセットイン」
近畿大学の正門手前を左に曲がったところにある喫茶店。
いつの頃からかSF研の溜まり場となった(聞くところによると、20年以上たった今でもそうらしい)。マンガ研究会も同じ場所を溜まり場にしていた。武田の在学中、卒業後も店を拡張しているところを見ると景気はイイのか? 3年前、マスター念願のペンションを白馬にオープンした。
※3
水野喜代志
近大SF研で武田の1年後輩だったが、武田が留年するやいなや「今日からは同学年や」といきなりタメ口になった。武田に厳しくあたる人物の第一号となった。特撮映画、ホラー映画のマニア。現在は警察官。
※4
三輪基博
近大SF研の後輩。学外でもファン活動をしていた初めての友人。彼を通じて知り合った人物も多い。
デザイン・編集担当でゼネプロに入社。猛烈に寒い駄洒落を飛ばし「センスの神様」の異名をとる。変なおもちゃをどこからともなく探してくる名人。1988年失踪。
※5
岡本安司
近畿大SF研のOBで、当時のSF大会をはじめとするさまざまなイベントで司会役をしていた。武田たちの前の世代で幅広くファン活動を行っており、顔も広かった。早いテンポの大阪弁での強烈なツッコミは印象的で、今でも古手のSFファンは「今ここに岡本安司がいたらこう言うね」などと口にするらしい。
武田の話術の師匠である。
※6
池田秀紀
近大SF研の先輩。父親の仕事の都合で3年間ばかりアルゼンチンで過ごしたらしい。物事をはっきりさせないと気の済まない気性で、何かにつけて理路整然と意見を呈されたのは、武田にとって印象強い経験だった。
※7
外山昌平
近大SF研の後輩。
その風貌から「クリマン」と命名したら、20年以上その名前でしか呼ばれていない。現在もガイナックスに在籍しているが、本名を知る人は少ない。風貌、性格ともに「王立宇宙軍」のチャリチャンミのモデルになっている。
※8
後藤俊夫
近大SF研の1年先輩だが留年していて、武田と同じ2年生として出会った。後藤俊一というペンネーム(ひょっとすると本名と逆かも)で小説を書くなど、武田が初めて出会ったプロ志向の人物。
※9
『星群の会』
京都(現在は大阪)をベースに活動していたSF創作同人誌グループ。
1971年活動開始の老舗サークルで、プロになることを視野に入れて活動する人も多い。菅浩江や水野良といったプロ作家を輩出している。
※10
BNF(Big Name Fan)
プロというわけではないが、積極的にSFファン活動を行って名が売れた人たちをこう呼んだ。敬意をもって呼ばれるはずの呼称だが、揶揄する場合に使われることも多い。プロの出版社では作品を発表していないが、ファンでは有名な作家、評論家など。ファンに対する「影響力」に重きを置いているところが、最近の「コミケ作家」とはちょっと違うか?

関西学生SF研究会連盟
 あの当時、世の中はSFブームみたいなことになっていて、だいたいどこの大学でも規模の大小はあれSF研が存在していた。
 面白そうだからというだけの理由で、あっちこちの大学のSF研と連絡をとったり、連絡組織設立の呼びかけや、会議等とまぁいろいろ手伝ってた。この時設立された「関西学生SF研究会連盟」※11、通称「関S連」がのちにぼくらが初めて主催したSFイベント「第4回SFショウ」の運営団体になる。
 この時代はまだほんの少しだけ学生運動の影響が残っていたらしい。その残滓というか燃えカスのようなものが関S連の勧誘に行ったときに感じられた。というのも他校のSF研究会の人間が突然やってきて「あーだこーだ」と話をするのが気に入らない様子なのだ。ようするに自分たちのSF研究会のことは自分たちでする(自治する)ってな感じだった。当たり前だが、ぼくは学生運動にはかけらも触れていなかったので、最初は戸惑ったもんである。「オルグ」だの「プロパガンダ」といった聞いたこともない単語がでてきた。でも、そういうことを言っている人たちもよくわかって言っているようには思えなかった。そのうちそういう連中とは付き合わなくなった。
 最初は近大を含めて参加大学は4~5校だったんだけど、面白いから熱心に動き回っていたら「あんたが事務局※12をやれ」って雲行きになって結局ぼくが初代事務局長になった。
 今となっては後藤さんの真意がどこにあったのかわからないが、この段階では関S連はイベントをする団体を目指すとかいうものではなく、本当に各大学のSF研の連絡会で、年に何度か連絡誌を出す程度の活動をしているだけだった。
 とにかくまぁ正直、ぼくにとって趣旨とかなんとかはどうでもよくて、何でもいいから面白いってのが大事だった。
 そんなことばっかりしていたもので、どんどん大学に行かなくなった。
 もちろんSF研の仲間とは相変わらず喫茶店で会っていた。
 その頃のぼくの一日は、目が覚めると溜まり場になっていた喫茶店に行って、コーヒーを飲みながらSFを読む。仲間が集まってくるとバカ話で盛り上がり、日が暮れると飲み屋に場所を移してさらに盛り上がるという次第。毎日が楽しかった。
 必然的に大学は留年し、2度目の2年生をやることになってしまった。
 そんな生活の中で、初めてSFのイベントに行くことになる。
 直接のきっかけは忘れてしまった。近大SF研の後輩の三輪が高校生の頃からファン活動をしていて、SF大会※13にも行っていると言う。聞けばSF研や関S連の仲間たちも行く人間が多い。SF大会というのは、知ってる人には今さらな説明だけど、SFファンが主催するイベントで、年に1度開催されている。特に主催団体が固定されているわけではなく、「やりたい」っていう連中というかグループが手を挙げて立候補するので毎回主催者は変わる。だから大会の場所は全国にわたるし、企画内容や開催方式、開催日程も毎回変わる。都市型といって、東京や大阪のような都市圏では、会場と宿泊場所が別々の大会がある。特に宿泊する必要がない。またリゾート型といって、大きな会場が借りられない、もしくは宿泊が絶対に必要な地方で開催する場合、旅館を借り切っての合宿のような大会になる。そんな時は二泊三日の場合もある。もちろん、徹夜の飲み会にもなる。SF大会の参加には体力も必要である。それゆえに「SF大会の本番は合宿にこそある」という人も多い。
 その日本SF大会も2001年の大会で40回を迎えた。ということは40年続いていることになる。初期の大会主催者は現在では作家としても大物になっている人が多い。小松左京※14や筒井康隆※15、野田昌宏※16もSF大会の大先輩なのだ。SF大会はアマチュアが開催するイベントだけど、SF界は作家とファンの間か比較的近くて※17、ファンだけでなくプロの作家も多く参加している。このようなファンイベントはSF以外のジャンルでは考えられない。
 もくも存在はなんとなく知っていたけど、参加しようと思ったことはなくて、「へぇみんなそんなとこに行くんだぁ」って感覚で聞いていた。
 まぁ、一度くらい行ってみるかという気持ちで、香川県でローカルコン※18があるというので参加申し込みをした。
のーてんき用語/人物事典
※11
「関西学生SF研究会連盟」
大阪近郊の大学SF研の間の相互連絡組織。月一度の連絡会議と連絡誌の発行をしていた。
最盛期(DAICON4の頃)には、大阪大学、大阪府立大学、大阪市立大学、近畿大学、追手門大学、龍谷大学、大阪外語大学、大阪電気通信大学、大阪芸術大学の9行が加盟していた。
相互交流に熱心だった1980年代のSFファンの活動の一つで、SF大会やDAICONFILMへの人材供給に貢献した。
DAICON4以降は求心力を失い、数年で自然消滅したと思われる。
※12
事務局
この種の団体は、特定の活動拠点を持たないため、連絡役を務める個人が「事務局」を名乗ることになる。
要は、複数の団体の連絡調整役ということ。
※13
SF大会
米国の世界SF大会(ワールドコン)を範として始まったSFファンの集会。第1回が1962年に東京で開かれてからすでに40回を数える。全国のアマチュアグループが持ち回りで主催し、年に一度(たいてい夏休みに)開催される。
毎回開催の形態は異なっていて、温泉地で開かれる合宿のようなものや、舞台での講演や上演が主のショウ形式のものがあったりする。
プロの作家、漫画家、翻訳家、編集者の参加も多く、また、大会の場での活動をきっかけにプロ活動をはじめるケースも多い。
1980年頃は、吾妻ひでおなどの漫画家による大会のレポートが話題になり、世間のSFブームとあいまって、大会に参加する事、大会を主催する事に注目が集まった時期でもあった。
主催団体は毎回入れ替わるが、大会の開催権は「日本SFファングループ連合会議」が管理している。
※14
小松左京
SF作家。「日本沈没」「さよならジュピター」など。
日本SF界の重鎮。1970年の万博でもテーマ委員をつとめるなど、その活動範囲は多岐にわたる。
SFショウのゲストに来てもらって以来、ファン活動をしていた学生の武田らを色々とかわいがって頂いたいただいた。地元大阪で活動していたこともあり、イベントの相談などに乗って貰ったことも多い。
武田が主催した2001年の第40回日本SF大会では、名誉実行委員長をつとめて頂いた。
※15
筒井康隆
SF作家。「時をかける少女」「家族八景」「虚航船団」など著書多数。氏が名誉実行委員長をつとめた1975年のSF大会「SIINCON」は、1,000人を超える参加者数もさることながら、ショウアップされたエンターテインメント性の高さはその後の大会の方向性に大きな影響を与えた。
1993年、言語規制に抗議して「断筆宣言」(96年に解除)。映画、演劇、テレビドラマへの出演などでも活躍中。
※16
野田昌宏(宏一郎)
TVプロデューサー、SF作家・翻訳家。TV制作会社「日本テレワーク」社長。
初期のSF大会を開催するなどした日本SF界の大御所。自称「宇宙軍大元帥」。
数多くのスペースオペラを翻訳し、自らも小説を執筆している。パルプマガジンのコレクターとしても有名。
辣腕のTVプロデューサーであり、ガチャピン・ムックで有名な子供番組「ひらけ!ポンキッキ」の生みの親。ファン活動の支援にも積極的で、武田らも大会の開催やゼネラルプロダクツの設立にあたってずいぶんお世話になった。実はガイナックス設立以来の監査役でもある。氏のファンクラブ「宇宙軍」は現在も活動を続けている。
※17
作家とファンが近い
TSF大会自体、まだ無名時代のSF作家たちが中心になって、ファン同士の交流を目的として開催したものである。SF大会での交流を通じてデビューに至った作家や編集者も多い。またSF作家たち自身が熱心なSFファンであるため、仲間を求めてSF大会にやってくるという側面がある。夜の合宿所で作家や編集者とファンとが車座で酒を飲むような光景はSF大会ではおなじみだが、他の分野では考えにくいことではなかろうか。
※18
ローカルコン
年に一度開催される「SF大会」に対して、各地のファングループがそれぞれ独自に開催する地方イベントをこう呼んだ。地方に根付いた活動であることもあって、長く定期的に開催されているものも多い。

この記事は『のーてんき通信 エヴァンゲリオンを作った男たち』(2002年発行・ワニブックス刊・武田康廣著)からの抜粋再録です。文中の役職や会社名・所属などは2002年当時のものです。


第2回「少年期のおわりに」「運命の大学入学」

少年期の終わりに
快傑のーてんき 子供の頃のぼくは、今で言うところのオタクではなかったと思う。
 物心ついた頃、家にはテレビはあったし、漫画雑誌も『少年マガジン』『少年サンデー』がすでに存在していた。その当時のアニメや漫画は何故かSF的設定のものが多くて、ぼくはそれらの作品たちにハマっていた。SFというか未来的な作品にある不思議な魅力、かっこいい未来にあこがれた。でもそれだけだ。それはその頃の子供としては、ごく一般的だった。テレビや漫画の他にも好きなもの楽しいものはいっぱいあったし、アニメや漫画ばかりにハマりきった子供時代を送ったわけでは決してない。
 ただ同年代の子らと少し違っていたのは、小説を読むのが好きだったことだろう。きっかけはもう忘れてしまったが、小学校4年くらいの頃から特に好きになって、同級生が校庭で走り回っているときにぼくは図書館に通っていた。好きな本を買うという時代ではなかったと思う。本が読みたいなら図書室である。そして読むのはひたすらSFと推理小説。もちろん小学生向きに翻案されたものだったが、むさぼるように読んだ。作品でいえば「ルパン」や「ホームズ」、作者ならば「クラーク」※1「ハインライン」※2等の60年代前半のSF作家たちだった。いわゆる「基本」の作家である。もちろんその他の作品作者も多数読んだ。あげくの果てに小学校5年生のとき、「ずっと図書館にいられる」という理由で図書委員になった。ほんの少しでも本を読んでいる時間が欲しかったからだ。今考えると残念なのは、読んだ本のことを語る友達を身近で積極的に探さなかったことだろう。
 初めて創元や早川※3の、いわゆる子供向けじゃないSFに出会ったのは小学校6年生のときだった。その初めての本が『グレイレンズマン』。でも実はこれは読んでる途中で理解できずに投げ出した。理解できないんだから面白いわけがない。面白くないものは読み続けられない。極めて単純な理由だ。SFファンならご存知だろうが「レンズマン」※4はシリーズ物で、そのシリーズ物の途中の1冊だけを小6の子供が読んでも理解できないのはしかたなかっただろう。
 もちろんそれくらいのことで本を読まなくなるようなことはなかった。そして次に出会った本がヴォクトの『宇宙船ビーグル号』※5。これが面白くて面白くていろんな意味で決定的だった。この作品に出てくる主人公の総合科学者が冷静で計算高く、そして目的に忠実なリーダーシップを発揮していてめっちゃかっこいいなぁと思った。ぼくの中の科学者※6像はこの作品によって形作られたと言ってもいい。同時にSFをますます好きになったのもこの本のおかげだろう。今でも2~3年に一度は『宇宙船ビーグル号』を引っぱり出してきて読み返してる。何度読んでも飽きない。
 今から考えるに、「文学的」な小説は挑戦してもすぐに飽きてしまってあんまり読んでいなかったように思う。ぼくをわくわくさせたのは、SFや推理小説、冒険小説ばかりだった。学校の課題図書は結構読んだけど、何であんなに児童文学は暗い話がおおかったのだろうか? まだ、戦争の影が残っていたからかもしれない。ベトナム戦争の最中でもあったし、日本人にとっても身近な戦争の記憶がまだリアルに反映されていたからかもしれない。少なくとも現在のテレビで見る「遠い戦争」ではなかったのだろうな。考えてみればぼくが生まれた1957年は、まだ太平洋戦争が終わってからわずか12年しかたっていなかったのだ。
 ちょうどその頃、アポロ11号※7が月に着陸し、しかもそれがテレビで生中継されている。今、この瞬間に人類が月に立っているんだと思うと興奮した。ずっとテレビにかじりついていて観ていた。ほんとうに科学ってすごいと思った。
 そして、ぼくの科学信仰をさらに決定付けたのは1970年の大阪万国博覧会※8だ。
 同世代の人には理解してもらえると思うが、大阪万博は科学がこれから実現していくであろうぼくらの未来の象徴だった。当然のようにアメリカ館には月の石が展示され、ぼくはもちろん見に行った。2時間並んで、ただの石コロを見たのだ。その石コロはしかし月から持ち帰られた石コロだ。ただの石コロとは石コロが違うのだ。明るくて、凄くかっこよくて、おしゃれな未来を含んで後光が差しているように感じた。
 繰り返しになるが、ぼくが特別だったわけではない。あの頃の子供、特に男の子は多かれ少なかれ同じような気持ちだったと思う。
のーてんき用語/人物事典
※1
「クラーク」
アーサー・C・クラーク。英国出身のSF作家。科学理論に裏づけされた近未来を舞台にしたSF作品を多数発表している。
代表作に「2001年宇宙の旅」「地球幼年期の終わり」など。スリランカに在住。
※2
「ハインライン」
ロバート・A・ハイライン。米国のSF作家。強烈な人生論に則ったメッセージ性の高く、かつエンタテインメント性の高い作品が多い。
代表作「宇宙の戦士」「愛に時間を」「夏への扉」など。
※3
創元や早川
東京創元社と早川書房の2つの出版社がSF作品のほとんどを刊行していた。
特に早川書房はSF専門誌「SFマガジン」を刊行するなど日本SF界を独力で支えていた感があり、「ハヤカワこけたら皆こけた」と自嘲的な言を吐く日本人作家もあった。
※4
「レンズマン」
E・E・スミス作のシリーズSF。
宇宙パトロールものの原点とも言うべき作品。いわゆる「スペースオペラ」のルーツ。荒唐無稽なスケールの大きさでファンが多い。
全7巻が刊行されている。「グレイレンズマン」はシリーズ中盤の作品。
1984年には日本で映画とTVでアニメ化された。
※5
「宇宙船ビーグル号」
A・E・ヴァン・ヴォクト作の冒険SF小説。科学者を大勢乗りこませた科学探査宇宙船「ビーグル号」の冒険談。様々な宇宙生命との出会いをイマジネーション豊かに描く。
※6
科学者
「ビーグル号」の主人公は「総合科学者(ネクシャリスト)」と呼ばれる万能科学者。科学啓蒙色の強い本作にあってはスーパーヒーローである。武田はこの「ネクシャリスト」を目指すべく、理科系に進んだ。
※7
アポロ11号
1969年7月20日、アポロ11号による人類の月面着陸が果たされた。着陸の模様がTVによって全世界に実況中継されたこと自体、一大ページェントだったと言える。アポロが持ち帰った「月の石」は1970年の大阪万博のアメリカ館で展示公開され、大きな話題となった。
※8
大阪万国博覧会
1970年、大阪北千里で開催された万国博覧会。第二次大戦後、未曾有の高度成長を成し遂げた日本が官民一体で成し遂げた大プロジェクトでもある。「人類の進歩と調和」をテーマとし、SF作家の小松左京もテーマ委員として参加した。
その「未来的」な雰囲気は当時の日本国中を高揚させ、小中学生は何回万博に行ったかを競い合った。

運命の大学入学
 科学信仰はもちろん進学にも影響を与えた。
 大学は近畿大学※9に入学し、原子力工学を学ぶことを選んだ。
 理由はしごく簡単。これからの世界は電気を中心に動いていくだろう。コンピュータであれ何であれ、ぼくの思い描いている未来はすべて電気で動いている。そして電気といえばこれからは原子力だろうと18歳のぼくは考えた。
 実際ほんの少しだが「原子力」というものを勉強してわかったことは「これムチャや」ということだった。人類に「原子力エネルギー」は荷が重い。それ以外の電気エネルギー源を考えるほうが未来のためだと思った。
 近畿大学は一流とはとても言いがたい、当時のぼくの感覚では二流の大学だった。学生がやたらと多い学校で、そのため敷地内には4階建て、5階建ての校舎がまさに林立している、そんなキャンパスだった。当時日本最大のマンモス大学の日本大学の学生数が7万人とかのとき、近畿大学にも5万人以上の学生がいいたはずだ。「すべての学生が出席すると教室が足りなくなる」なんていう噂がまことしやかに囁かれていた。とにかくでかい学校で、そのでかさが災いしてか、ぼくは1年生の時、入ろうと思っていたSF研※10を見つけることができなかった。
 中学、高校とSFを読み続けている間に『SFマガジン』※11と出会い、世の中にはSF研究会というような存在があるらしいことを知っていた。出会いという書き方をしたけれど、オーバーではなく、ぼくの住んでいた町は田舎だったから本屋に『SFマガジン』なんてたまにしか置いてなかったのだ。もちろん学校の図書館にもなかった。
 それまであまりSFのことを語れる友達が身近にいなかったせいもあって、大学に入ったらSF研に入ろうって漠然と思っていた。
 ところがそれが果たせなかった。理由は簡単で、近畿大学のSF研は大学の公認サークル※12ではなかった。だから冷遇されれていて学内にも部室はない。それどころか存在すら認知されてなかった。そんな状況なので入学時期に貼ってあったポスターを見つけられなかったから、SF研に入会することも当然ながらできなかった。ガチョーンである。
 SFのことを一緒に話せる仲間が欲しかったんだけど、でもまぁいなければもう我慢できない! 死んでしまう! というほどでもなかったし、そのときはそれ以上探さなかった。
 高校時代は近所の仲間とバンドを組んでベースギターを弾いていたし、スキーに凝っていてシーズンになればスキー場へ通うという生活も読書三昧の一方にはあって、SF研に入れなかった大学1年のときはその延長で遊んでいた。
のーてんき用語/人物事典
※9
近畿大学
大阪市に位置する私立大学。日本有数の学生数を誇り「ミナミで石を投げたら近代生にあたる」などといわれる。卒業生に朝潮、赤井英和など。最寄駅から大学正門に至る道筋は「親不孝通り」と呼ばれ、雀荘、喫茶店、ゲームセンターが目白押しで、駅を降りた学生が教室にたどり着くのをはばんでいる。
※10
SF研
SF研究会。たいていは大学の学内サークルを指すことが多い。
中には創作同人誌や未訳海外SFの翻訳などの活動を行うサークルもあったが、たいていは、マニアックなネタの通じる仲間と延々馬鹿話を続けるサークルであることが多かった。
1980年代中ごろからは、漫研、アニメ研、ゲーム同好会、特撮研究会などと融合するケースが多い。近年のメンバーは、20代のくせに1970年代のアニソンばかりカラオケで歌う。
※11
『SFマガジン』
早川書房刊行のSF専門月刊誌。1959年創刊。1983年頃にはSF専門誌が4誌も刊行されていた時期もあるが、休刊することなく発行され続けているのはSFマガジンのみ。SFマガジンを読んでいるかどうかが、正統派SFファンであるか否かの試金石だとする向きもある。
※12
公認サークル
大学公認のサークルとなると、学生会館に部室が確保できたり、大学祭の出店で良い場所を確保できたり、大学から活動予算が出たりと特典もある。
しかし、大学のイメージアップに特に貢献することの無いSF研究会などは、なかなか公認サークルになれないケースが多い。

この記事は『のーてんき通信 エヴァンゲリオンを作った男たち』(2002年発行・ワニブックス刊・武田康廣著)からの抜粋再録です。文中の役職や会社名・所属などは2002年当時のものです。