第8回「オープニングアニメ(後編)」「ダイコン3」「祭のあと」

オープニングアニメ・後編
快傑のーてんき オープニングに間に合わなかった手塚治虫さん※1が、夜合宿のほうに合流して、オープニングアニメの話を聞いたらしく「見たい!」と言ってくれた。そこで急遽合宿で再上映もやった。そのとき自己紹介した庵野、山賀、赤井の3人だが、山賀の自己紹介は「山賀です。山に賀正の賀です」と手塚さんの目の前で緊張しながら両手の指をあわせて山の字を作っていた。今でも山賀はそうやって自己紹介している。あとで聞いた話だけれど、赤井と山賀が手塚さんに見せた後、手塚さんが「いろいろキャラがでてるねぇ。ほんといろいろでてるよねぇ。でも、出てないのもあるよねぇ」と感想を話していたが、なんだかやけにキャラのことにこだわるなぁと思っていたら「はった!」と気がついたらしい。そう手塚キャラがひとつも出ていなかったのだ。手塚さんはダイコン4のときはオープニングアニメに間に合うように、わざわざ早くきてくれた上に大会企画にも協力してくれた。ダイコン4オープニングアニメでは手塚キャラはちゃんと出ていた。
 このアニメはアニメ雑誌の『アニメック』※2で紹介されたり、見たやつの口コミで評判を呼んで、「見たい、分けてほしい」という声が大会終了後に結構寄せられた。大会自体も大赤字※3だったので、赤字救済委員会を設立してビデオと8ミリテープを売ることにした。これがまた素人としてはサービス精神旺盛で、わざわざ描き下ろしシールを作ったり、絵コンテをオマケにつけたりした。これが予想以上に売れて、赤字を埋めた上に利益があがった。のちのちこの利益がダイコン4の準備とダイコンフィルム作品の制作に使われることになる。
のーてんき用語/人物事典
※1
手塚治虫
いわずと知れた「マンガの神様」。日本のTVアニメーションの開祖でもある。DAICON3オープニングアニメをいたく気に入って頂いて、スタッフ一同恐縮してしまった。
※2
アニメック
1978年創刊のアニメ専門誌(隔月刊、後に月刊)。発行はラポート(株)。初代編集長は小牧雅伸氏。
先発の大手アニメ誌がタイアップ的な作品紹介記事に終始していたのに対し、創刊当初から、マニアックな視点で掘り下げた作品解説や、読者コーナーの充実などでファンの支持を得た。
アマチュアのイベントフィルムに過ぎなかった「DAICON3オープニングアニメ」を巻頭カラーの特集で取り上げたり、ゼネプロの武田岡田コンビにコラムを書かせるなど、「濃い」雑誌であった。高千穂遥氏が「ガンダムはSFではない」と論じたのもアニメック誌上である。
※3
大赤字
DAICON3では200万円ほどの赤字を出した。
開催前から予測はしていたものの、学生の身には大変な金額だった。
武田はじめメインスタッフの持ち出しだったが、この解消のためオープニングアニメのビデオ販売を実施した。「オリジナルビデオアニメ」が発売される2年前の話である。

ダイコン3
 SFファンとか作家とかが集まってバカ話をする、それが楽しいんじゃないのというのがダイコン3の基本理念だった。ただそのバカ話をなるたけ派手にする、バカ話を実現する、そういう姿勢がダイコン3にはあった。
 スタッフの総勢は80人くらい。大ホールでメインの企画が進行しつつ、分科会※4もあり、ディーラーズルーム※5もありという形だった。ただ基本方針はお客さんを楽しませる、いわゆるショウアップするという、それまでの大会ではなかった路線を打ち出したところが新しかった。この大会が最近主流になっているSF大会の原型みたいになった。
 大ホールの定員1,500人が参加者の最大人数。申込みが多くて春には参加申込みを締め切った。前評判も上々。
 当時はSF雑誌※6も『SFマガジン』以外にもあったし、『アニメック』の編集長もSFファンであったこともあり、SF大会を宣伝できる媒体がわりに多くあったせいだと思う。
 当日、ぼくはとにかく忙しくて、まさに目の回るような状態だった。大会当日に荷物を運ぶために借りたトラックがエンスト。その場にいたスタッフがじっとしていなかった。ただひとり大阪大学SF研に所属していた神村※7だけが、コスチュームショーを見ていた。そのことは20年たった現在も戒めに言い伝えられている。本人は誤解だと主張しているが誰も聞いちゃいない。
 スタッフのほとんどが学生だったから、運転免許を持っているやつが少なかった。そのせいで、実行委員長だったぼくは常に輸送部隊のドライバーを兼任していた。大会終了後に撤収の準備をしているとき、トラック1台ではとても荷物が乗り切らないことが判明した。その場で近所のレンタカー屋へぼくは走った。そこで「ここにあるトラックで普通免許で運転できる一番でかいのを貸してくれ」と言った。店員が指差したのは、4トン半のロングボディのものだった。さすがにぼくもこんな大きな車は運転したことがなかったが、とにかく借りた。会場の搬入口にバックで入れるときは死ぬ思いだった。なんせ誘導する連中が無免許なのだ。これ以後、ぼくは軽四輪から4トン半まで普通免許で運転できるすべての車種を運転することになる。
 また、ダイコン3の特徴のひとつに、ディーラーズルームがある。
 ワールドコンに取材に行った際にオリジナルアイテムを作って売るという発想を持って帰って来ていたぼくらは、ディーラーズルームの充実をはかった。
 実際、ワールドコンに行って、英語がわからなくてもディーラーズルームなら見て楽しめたのだ。とにかくいろんなものを売っている。ファンタジー系の剣を金属から削り出して売っていたりプロのディーラーが出ていたり。当時、日本のSF大会では、プロのお店や出版社がSF大会に出展するっていうのは稀なことだったからとても面白かった。
 ディーラーズルームも物を売っているだけじゃつまらないっていうので、当時のスタートレック※8のファンクラブに頼んで、パソコン(当時はマイコン※9と言っていたけど)のスタートレックのシミュレーションゲームをプレイするためのスペースを作った。マイコンをベニヤと段ボールで作ったコックピット風のセットに組み込んで、スタッフがスタートレックの恰好をしてゲームの説明をする。PC8001を8台並べて、当時マイコンが8台も同じところに並んでいるなんていうのは初めて見る景色だから、なかなか好評だった。
 実行委員会もオフィシャルグッズとしていろんなものを制作販売した。ちっちゃなマスコット(もちろん手作りのやつ)とか、吾妻ひでおさん※10の漫画のキャラである「なはは※11」の頭とか、スタッフの女の子たちは女工哀史のようにノルマを決めてせっせと作ったのだ。まだ「ガレージキット」という名称はなかったが、ポリ樹脂で作ったパワードスーツなど。せいぜい10数種類だったけど瞬時に完売。岡田君はこれで手応えを感じ、「この商売はいける」と後のゼネラルプロダクツ開店の構想を持ったようだ。
 ダイコン3は本当に大成功だった。ぼくは、イベントとしてこういう方向性は大正解だったと確信した。スタッフもかなり満足したと思う。SFショウのあとは「もうこりごりだ」と言って抜けてったスタッフもいたけど、ダイコン3のスタッフはかなり多くがそのままダイコン4へつながっていった。
 自分でも楽しかったし、お客さんもスタッフも喜んでくれたという自負もある。いろいろな意味合いで、ダイコン3は大成功だった。
のーてんき用語/人物事典
※4
分科会
ホールで行われる舞台企画に対して、数十名収容の会議室をいくつか使って複数並行して行われる小規模な企画群をこう呼ぶ。
DAICON3はホール企画と分科会企画の両方を、大会の両日にわたって常時運営した。これは当時のアマチュアイベントとしてはかなり高度な行為だといえる。
※5
ディーラーズルーム
大会の会場内に作られた、同人誌等の即売会場の呼称。さまざまなサークルが自分たちで作った同人誌やグッズを持ち込んで販売する。
SF大会からこのディーラーズルームだけ特化して大きく成長したのが、コミケの発祥である。
※6
SF雑誌
当時、「SFマガジン」、「SF宝石」、「SFアドベンチャー」、「奇想天外」と4誌ものSF専門誌が発行されていた。
現在残っているのは「SFマガジン」のみ(SFアドベンチャーは形を変えて再び発刊されつつあるが)。
※7
神村靖宏
大阪大学SF研に入ったことからDAICON3以降の活動に参加。自主制作映画の制作進行などを担当した。DAICONFILMの活動終焉と同時にNTTに就職し堅気になるかに見えたがオタクの血を押さえられず結局武田に招かれてガイナックスに入社、総務的業務を担当する。武田と同じ誕生日のA型のヤスヒロである。多方面にミーハーなSF、アニメ、特撮ファン。
※8
スタートレック
非常にマニアックなファンの熱烈な支持を集めるTVSFドラマシリーズ。そのファンは「トレッキー」と呼ばれ、SFファンの大きな一分派を占める。
日本では「宇宙大作戦」のタイトルで1969年から放映開始。関西圏では無限ループで再放送が繰り返されていた。
※9
マイコン
DAICON3の前年にNECから発売されたPC8001はマニアの高い支持を得ていた。「スタートレックゲーム」など、素人目には何がどうゲームになってるんだか、説明を受けてもよく判らなかったけれど。
※10
吾妻ひでお
シュールなギャグとキュートな絵柄で1980年代始めに絶大な人気があった漫画家。古今東西のSF作品のネタをマニアックに盛り込んだ「不条理日記」などでSFファンの熱狂的支持を得た。「美少女」「ロリコン」「不条理」をマンガ界に定着させた人物といえる。「不気味」「なはは」など複数作品に登場する個性的なキャラクターのいくつかは、ゼネラルプロダクツでも商品化された。
※11
なはは
吾妻ひでおがさまざまな作品に登場させたキャラクターのひとつ。うつろで大きな目と開きっぱなしの大きな目がチャームポイント。
同じ吾妻ひでおの「不気味」とともに、当時多くのSFファンに認知(支持ではなかったと思う)されていた。
DAICON3オープニングアニメに登場したほか、造形が簡単なことも手伝って、手作りマスコットがSF大会の販売アイテムとして作られたりした。ゼネプロでもクッションなどを製品化している。

祭のあと
 ダイコン3で満足して、燃え尽きた。実現までにいろいろゴタゴタはあったが、ぼくらは日本SF大会を開催し、そして成功させたのだ。だが残ったのは脱力感だった。
 ぼくは5度目の大学2年生の生活に戻った。
 大学に入って、まともに授業を受けたのは1年生の時だけ、2年生になってSF研に入ってからはどんどん授業に出なくなっていた。ようやく自分が望んでた話ができる友達ができて、毎日が楽しかったからだ。
 戻ったといっても、学校には行ってなかったから、当然留年するのは分かっていた。研究室の教授は「このまま居ても卒業できないから、いったん退学して、あらためて再入学してやりなおさないか」とか言うし、親からは「いいかげん真面目に学校へ行け」と言われていた。だけど、ぼくは積極的に考えることをせずSF大会をやる前の生活、ようするに喫茶店に行ってコーヒーを飲みながら小説を読むという、SF大会のない日常を送っていた。実を言うとSFショウとダイコン3で疲れていた。
 もう学校も辞めてどこかに就職しようかと考えて、面接を受けてみたりもした。何だかイベントを成功させたんだから、そんな方面へ進むのもいいかなと思って2つ3つ面接を受けてみたが駄目だった。
 就職先は決まらなかったけど、結局大学はこの年の秋に辞めた。再入学する気はなかった。流され続けた結果、燃えかすになってしまっていた。
 そのままぼくは、やっぱり毎日ブラブラし続けていた。
 ぼくの人生にはこの後も何度か無気力になってしまう時期があって、原因はいろいろだが、これはその最初の無気力期間だった。とにかく何もする気が起こらなかったのだ。
 ダイコン3の準備後半から本部として使っていた3LDKのマンションが大阪の十三※12という場所にあった。のちに映画『ブラックレイン』で撮影場所になったところで、スタッフの植田正治※13という男が1人で住んでいる部屋だ。この植田は大阪大学SF研究会に所属していたのだが、アシノコンの時には高校生で参加していた。本人が後日言うには「僕は絶対にあの連中とつきあわんと心に誓った」と思っていたらしいが、なんとその後SFショウにも参加者としてきていた。結局は、周り巡ってダイコン3のスタッフをすることになった。ぼくは出会ってすぐ植田のマンションに泊まりにいった。それ以後数年間にわたってぼくらの根城となった。ダイコン3の準備は後半からこの部屋を拠点にしていた。だからこそ入り浸っていたのだけど、大会が終わってもぼくはそのままそのマンションに居続けた。ようするに居候だ。大学も辞め、友達のマンションに居候しながら、毎日梅田の喫茶店に出掛けては小説を読み、知り合いが集まればバカ話をするという生活をしていたわけだ。ほんとに無気力で、何かしようという気になれなかったのだ。この毎日のように居酒屋やマンションでお酒を飲んでいた同じ頃、十三の町を1人の外国人が鉄下駄をはいて生活していた。ハリウッドで映画スターになる前の「スティーブン・セガール」である。ぼくも一度だけ十三の商店街を歩くでかい外国人を見たが、あれがセガールだったと思う。その後庵野が自分の映画でセガールの娘さんである藤谷文子を主人公にするとは思わなかった。
のーてんき用語/人物事典
※12
十三
「じゅうそう」と読む。
大阪(梅田)から阪急で一駅、阪急神戸線、京都線、宝塚線の乗換駅で、大阪北部の「交通の要所」。ここにあった植田のマンションは、梅田で飲んで終電を逃しても、歩いてたどり着ける、学生のたまり場としては理想の場所だった。
家が遠方のスタッフや、自宅に帰りたくない学生が常時何人も生活をしていた。
このマンションの存在が、DAICON3終了後も人を繋ぎ止め、次の活動の温床となった。
※13
植田正治
大阪大学SF研に所属していた学生時代、彼が一人住まいをしていた3LDKのマンションは、長らくSF大会や映画製作の拠点としてスタッフが寝起きする場となった。その後、ゼネプロ/ガイナックスとは、独立と合流を何度か繰り返しつつ付き合いが続いている。
武田がファングループ連合会議議長に就くとともに同事務局長に就任、現在も在任中。
その女グセから付いた「あたる」のあだ名で通ることが多い。重度の活字中毒。

この記事は『のーてんき通信 エヴァンゲリオンを作った男たち』(2002年発行・ワニブックス刊・武田康廣著)からの抜粋再録です。文中の役職や会社名・所属などは2002年当時のものです。


終わりに
DAICON3を成功に導いたものの、燃え尽きて灰になってしまった武田。その後のことを駆け足でお伝えしましょう。

武田と一緒にSF大会を開催した岡田氏は、その後日本初のSF専門ショップ「ゼネラルプロダクツ」を大阪に開店しました。武田は岡田氏に誘われその店のスタッフとして働き始めます。
ゼネラルプロダクツで充実した仕事をしていた中、現役のSF研究会から「またSF大会をやりたい」という希望が上がり、彼らは再びSF大会を開催したいと考えました。立候補の前にはやはり根回しが必要です。今回はプロモーション映像でアピールすることにし、82年に自主制作映画のグループ「DAICON FILM」を立ち上げました。このグループには大会スタッフ育成を目的とする側面もありました。立候補は受諾され、彼らは83年に第22回日本SF大会・通称「DAICON4」を開催することになりました。「DAICON4」でも新しく制作したオープニングアニメを上映しました。
ゼネラルプロダクツはSFショップの他に、ガレージキットの即売会「ワンダーフェスティバル」を始めます。このイベントは海洋堂が主催を引き継ぎ今でも続けられています。
ゼネラルプロダクツの活動開始と同じ頃、山賀は劇場用アニメの製作を開始しました。それは後に「王立宇宙軍 オネアミスの翼」として公開されます。この作品のためにアニメ制作会社「ガイナックス」が作られました。
DAICON FILMとゼネラルプロダクツとガイナックスはそれぞれ別の組織ですが、大勢のスタッフが重なっています。赤井をはじめとした「八岐之大蛇」スタッフは、オロチの制作を終えたあとに王立宇宙軍のチームへ合流しました。
ゼネラルプロダクツもやがてガイナックスへ合流します。
ガイナックスは当初からプロとして東京で活動していましたので、ガイナックスへの合流は、大阪で活動していたゼネラルプロダクツ本拠地の移転と、アマチュアとして活動していたDAICON FILMの終息を意味しました。大阪の地を離れるのをよしとしないスタッフもおり、全てのスタッフが上京してガイナックスに合流した訳ではありませんでした。

東京へ活動の地を移した彼らは、王立宇宙軍の制作が終わったあともガイナックスを続けます。ゼネラルプロダクツは東京での活動の後、ガイナックスに合体合流する形で会社をたたむことになりました。
その後のことはみなさんの方がよくご存じかと思います。

これにておしまい。また、会いましょう「のーてんき通信 DAICON3の思ひ出」はこれにてお仕舞です。短い間でしたが、ご愛読ありがとうございました。ガイナックスの次回作品にご期待ください!
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