第6回「正式立候補」「ダイコン3開催決定」「庵野、山賀、赤井との出会い」

正式立候補
快傑のーてんき ダイコン3をやろうと決めて、すぐ次の大会で立候補※1した。
 もちろん今度は正式な手続きを経たし、根回しもした。
 ダイコン3※2は81年開催ということで計画を進めていった。
 SFショウのスタッフは関S連が中心だった。だけど、イベントというのは面白いもので、現在に至ってもそうなんだけど、終わったときに「またやりたい」というやつと「もうこりごりだ」というやつがでてくる。この20数年間イベントをやるたびに同じことが起こる。もちろんこりごりだって仲間は離れていく。まさに集合離散は世の常である。こればっかりは現在も同様だ。
 関S連やSFショウのスタッフ集めに大学のSF研を回っているときに、一緒にイベントをやろうと言っているだけで、「プロパガンダはやめてくれ」って言うやつがいた。「なんやそのプロパンガスってのは!」って思った。プロパガンダって言葉の意味も知らなかったんだけど「アホかこいつは」って思った。
 あと「イベントをやるのは嫌だというわけではない、手伝うのもやぶさかではないけど、ぼくらはSFファンの王道をいきたい。つつましくファン活動をしたい」みたいなことを言うファンもいた。彼らから見るとぼくらのやり方は異端だったのだろう。
 まぁ、そんな中から集まったSFショウのスタッフだから、イベントが終わって離れていくやつは結構な人数だったような記憶がある。それに対し20年間付き合い続けているスタッフもいる。人それぞれだ。あのときのぼくらはイベントの成功が大事で、スタッフ間の摩擦とか、人の感情とかはあんまり気にしてなかった。
 岡田君のキテレツな発言、澤村君の強引な進め方、いろんな摩擦や軋轢が起こった。「レポートや試験と、大会とどっちが大事やねん!」というような発言が当たり前に出てくる。ともかくぼくらは、SF大会に向けてもうやる気満々だった。
 最初はダイコン3も関S連を中心にやるつもりで動きはじめたけど、そんなこんなもあって、結局、各大学のSF研の中から有志が集まった傭兵軍団てなおもむきになった。それがダイコン3実行委員会の陣容だ。
 ダイコン3の前年、ぼくらはアメリカのボストンで開催されたワールドコン※3に取材を兼ねて参加した。日本SF大会の原点をこの目で見て、持ってこれるテイストは持ってこようという目論見だ。それと同時にディズニーランド※4も見た。まだ東京ディズニーランドは開園していない頃の話だ。お客に楽しんでもらえる大会にする、エンターテインメント部分の参考にするのが目標だった。
 当然、ぼく自身は3度目の2年生をやることになってたけど、全然気にもしてなかった。
のーてんき用語/人物事典
※1
立候補
SF大会は、開催を希望するグループの立候補を受けて、前年(現在は2年前)の大会のファングループ連合会議の席上で決定される。
他のグループとのバッティングを避け、スムーズに賛同を得るためにそれなりの根回し活動もやったほうが良いようである。
※2
ダイコン3
1981年8月23・24日大阪森之宮ピロティホールで開催された。参加者約1,500人。
セルアニメとして制作されたオープニングアニメ、大会史上類を見ない厚さのプログラムブック、オリジナルグッズの製作販売、ホールと会議室企画の本格的な並列進行などなど、エポック的要素の多い大会でもある。
※3
ワールドコン
日本SF大会のお手本となった世界SF大会。1939年から第2次大戦中の中断を除いて現在まで毎年開催されている。
武田らが参加したのは1980年にボストンで開催された「ノリスコン2」。
主に米国内で開催されるが、4年に1度は国外で開催される。2007年には日本で開催すべく現在誘致活動も行われている。
※4
ディズニーランド
会場内でさまざまな催しが並行して開催され、参加者に最大級の楽しみを与えるべく、スタッフを高いレベルで統率する…といったコンセプトを学び取りたいと考え、米国のディズニーランドを「視察」した。
ダイコン4の際にも、オープン間もない東京ディズニーランドへ大勢のスタッフで訪れた。
ダイコン4のコンセプトだった「異世界観」はディズニーランドから受けた影響が大きい。

ダイコン3開催決定
 翌年のトーコン7※5で大会開催の立候補をし、開催が正式に認められた。
 1年前のごたごたでコネクションができたファングループ連合会議の門倉さんや、宇宙軍の井上さんからいろいろ話を聞いて、根回しと誘致活動をやった。
 キャンペーングッズも作った。最初はワッペンを作ろうかとかいろいろアイディアがあったのだけど、予算的な折り合いとインパクトを考えて煙草(マイルド7)のパッケージをパワードスーツのイラスト入りにしたものを配った。
 イラストは近大SF研の漫画家志望の北山君※6で、彼がバズーカが煙草で指がライターになってる奴を描いてくれた。ちなみにこの煙草はダイコン3でオフィシャルグッズとして販売もした。
 こんどは手順を踏んで滞りなく、日本SF大会をやれることになった。
 このSF大会の愛称は、3回目の「大阪コンベンション」で「ダイコン3」と悩むことなく決まっていた。
 さて、開催は決まった、ではということで、小松左京さんに名誉実行委員長をお願いしに行った。大阪で開催するんだ、地元の大御所に名誉実行委員長をお願いするのが当然だと思っていた。ところが、あっさり断られてしまう。「おれはせん。その代わり、かんべむさし※7を紹介してやるから、かんべにやらせろ」とは小松さんのお言葉。
 結局ダイコン3の名誉実行委員長はかんべさんにお願いした。
 とはいうものの、「小松さんに名誉実行委員長を!」という思いは心の中にそのまま残っていて、20年後に幕張で開催した40回大会の「SF2001」では小松さんに引き受けてもらった。
 実はダイコン3が終わったとき、またSF大会をやろうという話が出た。そのときには「20年後で十分や」などと冗談を言っていた。場所は大阪ではなかったけど、本当に2001年に開催することになるとは正直驚いた。
のーてんき用語/人物事典
※5
トーコン7
1980年8月、東京の浅草公会堂で開催された第19回の日本SF大会。参加者数1,300人。
翌年のDAICON3の開催が確定する大会でもあり、DAICON3のスタッフたちは、この大会で誘致活動に精を出した。
※6
北山仁士
近大SF研の後輩。SFショウのときからスタッフとして参加。DAICONFILMの活動中やや距離を置きながらも協力し続けてくれた。漫画家志望ではあったが、現在は実家の自動車工場に勤務。動かなくなった車のレストアに熱意を燃やす。
※7
かんべむさし
軽妙な文体で幅広いジャンルを手がけるSF作家。大阪在住の縁でDAICON3の名誉実行委員長をお願いした。86年「笑い宇宙の旅芸人」で日本SF大賞受賞。

庵野、山賀、赤井との出会い
 日本SF大会開催の権利を得て、準備を進めていたある日、オープニング映像をどうしようかという話になった。
 SFショウのオープニングは借り物の映像を流したが、できるならダイコン3はオリジナルの映像を作りたいという意見が出ていた。
 そこで、岡田君が、「ウルトラQの上映会※8で知り合った永山君※9という男がアニメ作れるやつがいると言っている」という話を出した。永山君というのはいろいろと芸達者な人物で、後のゼネプロのガレージキットの解説文を書いたり『八岐之大蛇の逆襲』というダイコンフィルムの特撮映画の準主役も演じた。阪神大震災の年に交通事故で他界してしまったが、生きていれば今でも良い付き合いができていただろう。
 永山君の紹介で、京都のSF喫茶ソラリス※10で庵野※11、山賀※12と会った。ぼくと澤村君の2人で会いに行ったんだと思う。彼ら2人は大阪芸術大学※13に入学したばかりだった。
 当時のぼくはアニメにはあまり興味がなかった。たいした期待もせず、初めて会った庵野に「アニメ作れるっていうけどどんなんが出来るの?」と聞いたらその場で庵野はB5の計算用紙を取り出して絵を書きはじめた。
 しばらくして計算用紙をパラパラとやる。そこではパワードスーツ※14が走っていた。
 本当に驚いた。こいつは凄いと思った。ただでさえ線が多くて複雑な形をしているパワードスーツを描くだけでも難しいのに、それを動かして見せるんだから。
 もちろんパラパラマンガを見たことがないわけではなかったけど、目の前で制作過程を見せられたのは初めてだったし、とにかくあっという間に描いたにしては出来が良かったのだ。
 これでオープニングアニメを作ろうと盛り上がった。
 こうやって盛り上がっているぼくらの横で、山賀が突然、座っていた椅子ごと後ろにひっくり返って倒れた。騒然となった。「どないしたん? 大丈夫か?」と助け起こしたら、山賀いわく「しゃっくりを止めるために息を止めていたら、そのまま息をするのを忘れてた」。
 パワードスーツを動かす男と息を忘れて倒れる男、実にインパクトの強い2人とのファーストコンタクトだった。山賀に関しては、息を止める以外にも面白い話がある。中学生の頃、知能指数テストがありその後先生に呼ばれて怒られたそうである。先生いわく「お前、ふざけるのもいい加減にしろ。こんな数字ではまともな教育はうけれんぞ」。何かと聞けばテストの結果、山賀の知能指数は40だということである。普通100ぐらいが標準らしいので、40という数字は問題外だという。山賀本人はまったくふざけていなくて、考えに考えて時間がかかっての結果だという。親まで呼ばれて心配されたそうだから迷惑なものである。
 当然ながらぼくらの間では「おーい、40」と呼ばれていた。
 赤井※15はのちにアニメを手伝ってもらうために山賀が連れてきた。赤井は最初、そんなわけのわからんやつと会わなくてもいいやと思っていたらしいけど、具体的な話を聞いてみて、言葉は悪いけど、大学でチマチマ勉強してるよりこの連中が金をもってきてくれるなら、請け負って仕事したほうが自分にとってプラスになるという判断をしたらしい。これは山賀、庵野も同様の気持ちだったようだ。彼らは大学1年にして、お金を出してもらって映像作品をつくるという行為をしていた。まぁ制作実費だけでノーギャラだったけど。
 ぼくがSF研に入ったあと、将来のビジョンはなく、なんとなく流されながらその場の勢いだけでいろいろやって来たのに比べて、庵野、山賀、赤井には将来に対する明確な意思と、自分の才能で世間をわたっていくというビジョンがあった。その才能は、そのときから20年以上付き合って一層理解できるようになってきた。
のーてんき用語/人物事典
※8
ウルトラQの上映会
「ウルトラQ」は「ウルトラマン」の前年に放映されていた円谷プロダクション制作の特撮TVシリーズ。白黒作品であったため再放送の機会が少なく、有志による上映会が開かれていた。何しろ家庭用ビデオがそれほど普及していなかったため、このような上映会はファンの間で定期的に開催され、けっこう集客もあった。
※9
永山竜叶
庵野秀明と同郷で、高校時代にアニメ制作グループ「SHADO」を結成していた。
関西の大学へ進学後、知り合った武田等に、庵野を紹介した。
カメラマンとライターを志し、ゼネプロ製品の解説書なども手がける。アザラシのごとき体型と風貌で「N氏」の愛称で親しまれ、「八岐之大蛇の逆襲」では怪しい考古学者の役を演じた。
阪神大震災の報道写真でも成果を挙げたが、1995年、交通事故で他界。
※10
SF喫茶ソラリス
京都にあった喫茶店。店内にはマスターの趣味でSF映画のポスターや宇宙船の模型であふれていた。
近隣のSFファンの溜まり場となっており、永山もこの店でバイトをしたりしていた。
武田は、京都に住んでいた菅浩江を車で送って行くことが多く、この店にもよく立ち寄っていた。
※11
庵野秀明
映画監督、ガイナックス取締役。
大阪芸術大学在学中にDAICON3オープニングアニメの製作に参加する。
メカアクションや爆破などのエフェクトアニメーションを得意とし、宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」で巨神兵をアニメートして話題となった。
ガイナックス設立に参加し、オリジナルビデオアニメ「トップをねらえ!」でプロ初監督。「新世紀エヴァンゲリオン」のヒット後、「ラブ&ポップ」「式日」など実写作品にも意欲的に取り組んでいる。
宇宙戦艦ヤマト、ウルトラマン、仮面ライダー、ガンダムをこよなく愛する、正統派のアニメ・特撮ファン。普段は「ナウシカ」の巨神兵のモデルとなった緩慢な動作で歩いているが、ウルトラマンと仮面ライダーの振りマネをする瞬間だけは機敏になる。
肉や魚を食べないためベジタリアンと勘違いされがちだが、タマネギやピーマンなど嫌いな野菜も多い。単なる強度の偏食家である。
※12
山賀博之
映画監督、現ガイナックス代表取締役。新潟出身。「王立宇宙軍」監督。
大阪芸術大学在学中に、庵野秀明、赤井孝美とともにDAICON3オープニングアニメを製作。
ガイナックスの設立に参加し、若干22歳にして劇場用アニメ「王立宇宙軍」の監督をつとめた。小学生の頃から「俺は有名人になる」と宣言し、新潟の実家の向かいのオバさんには「あなたの家は『山賀博之記念館』の駐車場にします」と言ってあるらしい。
「サンダーバード」の人形に例えられることの多い風貌からは、何を考えているのか読み取りにくい。
1993年ガイナックス社長に就任。監督業は「王立宇宙軍」から14年間遠ざかっていたが、「まほろまてぃっく」「アベノ橋魔法☆商店街」と立て続けに監督作を発表している。
※13
大阪芸術大学
大阪府南部、南河内郡にある芸術系の私立大学。
この映像計画学科で庵野、赤井、山賀が同級生として出会ったのが、ガイナックスの出発点の一つとなった。
前述の近畿大学とは対照的に、駅からは遠く、田畑に囲まれた丘の上に学舎がある。しかし、学内で日常的に映画撮影やパフォーマンスが行われているため、コスプレで授業に出るくらいでは、他人の目を引くことは出来ないらしい。
※14
パワードスーツ
R・A・ハインラインのSF小説「宇宙の戦士」に登場する強化戦闘服。
小説中にはそのデザインについて言及がないが、日本で出版された文庫本には「スタジオぬえ」によるイラストが掲載され、そのデザインは後のアニメ等のデザインワークに大きな影響を及ぼした。「パワードスーツ」は「強化服」の一般名詞だが、日本のSFファンの間ではこのスタジオぬえデザインのものを指す。
「DAICON3オープニングアニメ」はこの複雑な形状の「パワードスーツ」をメインキャラクターとして登場させ、庵野秀明により作画でバリバリ動かして見せたことが話題となった。
※15
赤井孝美
ゲーム監督、イラストレーター。鳥取県米子市出身。現ガイナックス取締役。
大阪芸大で庵野、山賀と出会い、DAICON3オープニングアニメの製作に参加。
小柄な体躯でイラスト、造形、映画、特撮、ゲームと多方面に才能を発揮するマルチ天才。
ガイナックスのゲーム分野進出に先鞭をつけ、「育成シミュレーションゲーム」の元祖「プリンセスメーカー」を製作した。
1994年ガイナックスから独立して設立したナインライブスを活動の場としていたが、2001年ガイナックスの取締役に就任。TVアニメ「星界の紋章」のキャラクターデザインなどさまざまな分野で辣腕を奮う。

この記事は『のーてんき通信 エヴァンゲリオンを作った男たち』(2002年発行・ワニブックス刊・武田康廣著)からの抜粋再録です。文中の役職や会社名・所属などは2002年当時のものです。

続くよ!!第7回「オープニングアニメ」に続くのですが、その前に番外編です!
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