第5回「第4回SFショウ開催のきっかけ」「初めてのイベント」「日本SF大会開催への道」

第4回SFショウ開催のきっかけ
快傑のーてんき 無事に「初舞台」も終え、大阪方面に帰る仲間たちとバス停でバスを待っていたとき、みんな口々に「最後は面白かった」「最近の大会はイマイチだ」「ぼくらでもできるんとちゃうか」「そうやな」「ぼくらもSF大会しようか」と、まぁ何とも図に乗った発言を繰り返していた。ぼくはといえば、実はもう眠くて眠くて。ぼおぉーっとバス停のベンチに座っていた。しかし、このときの図に乗った発言がSF大会開催へとぼくらを動かしていくことになったのは確かだ。
 大阪へ帰り着く頃には、ぼくもすっかり日本SF大会を主催する気になっていた。
 まず最初に近大SF研で「SF大会をしたい!」って言ったら、先輩たちは異口同音に反対した。ようするに最初から日本SF大会のような最大級のイベントを開催するのは無理だというわけである。最初は小さなイベントからこつこつと始めて、イベントに慣れてきてからSF大会を開催すればよろしいということらしい。それに対するぼくらの考えは「ぼくらは日本SF大会を開催したいのであって、小さな催しをしたいのではない」ということだった。だから、SF大会に関しては、先輩たちとはそれ以降あまり相談しなくなってしまった。しかしそのために、日本SF大会開催の準備はその後とんでもない問題にぶちあたることになる。
 そのあと関S連に話を持ち込んだ。紆余曲折はあったけど最終的に、ぼくの所属している近大SF研を中心にしてやるということで話はまとまった。紆余曲折とは、関S連内部のSF研メンバーからももちろん反対意見や慎重論が出たからだ。しかし、ここで袂を分かつわけにはいかない。反対や、慎重なメンバーを説得してまわった。大阪府立大学SF研究会の撫佐君※1はぼくに企画書を書くことを勧めた。企画書なんてものは書いたことがなかったが、とにかく書いてみた。一応理科系の勉強をしていたので、実験のレポートの要領で書いたような記憶がある。まだ、ワープロのなかった時代だったのですべて手書きである。書きあがったSF大会開催に関する企画書を読んで撫佐君は「まさか武田さんにこんなものが書けると思わなかった」といった。「それってどういうこと?」と思ったが、そのときは「撫佐君の協力が得られる」という「ほっ」とした気分だった。そんなこんなでようやく日本SF大会開催に向けて関S連の意見はひとつにまとまった。
 会場を押さえ、『SFマガジン』に告知を打った。ところが大変な問題が持ち上がった。ファングループ連合会議※2というところから連絡があったのだ。正式名称「日本SFファンクラブ連合会議」といい、全国のSFファングループが多く加盟している。野田昌宏氏や柴野拓美氏※3らが1965年に設立した団体である。ぼくは2001年までファングループ連合会議の議長を務めたが、当時はその存在すら知らなかった。日本SF大会はファングループ連合会議の承認を受けた団体が主催するというシステムなのだが、もちろん知る由もなかった。
 これが準備段階で先輩たちの協力が得られなかったことの一番の問題点だった。ぼくら若手にはまったくSFファンの横のつながりや情報網がなかったからである。
 「困る」と当時の連合会議議長の門倉さん※4に言われた。「来年の日本SF大会は名古屋で開催されることになっています」と言う。愕然とした。
 よくよく聞けば、ぼくらが間違っていたのは明らかだ。門倉さん立会いのもと名古屋まで次の主催者と話しにいって、そこは「わかりました」と退いた。でもそのときにはもう会場も押さえてあって、どうしようかと頭を抱えていた。そこへ岡田君が入っていた『宇宙軍』※5というサークルの代表である井上博明さん※6が「野田さんが最初の主催をした「SFショウ」※7というイベントがある。このイベントはすでに3回開催されているのでSFファンにも認知されているから、この名前を借りてやったらどうか」という提案をしてくれた。
のーてんき用語/人物事典
※1
撫佐郁夫
大阪府立大学SF研に所属し、関S連の活動にもずいぶん協力してもらった。モノ書き思考が強かったようで、関S連の連絡誌発行にも尽力した。
※2
ファングループ連合会議
正確には「日本SFファングループ連合会議」。国内のSFファングループの連合組織で、グループ相互間の交流そのものを目的としている。
1965年の柴野拓美氏らの呼びかけによって設立された。
年に1度、日本SF大会の場で総会が開かれ、日本SF大会の開催権の管理と、大会で贈呈される「星雲賞」の決定を行っている。
「議長」と「事務局長」がそれぞれ1名任命されており、グループ間の連絡調整にあたっている。
※3
柴野拓美
日本SFファンダムの長老的人物。日本最初のSF同人誌「宇宙塵」を刊行し、同誌から多くのSF作家を輩出した。1962年に委員長として第一回の「日本SF大会」を開催し、1965年には「日本SFファングループ連合会議」を創立するなど、日本SFアマチュア活動の基礎を築いた。現在でもほとんどの日本SF大会、世界SF大会に参加し、ファンダムの国際交流にも力を注いでいる。
翻訳家として子隅黎のペンネームで多数の訳書がある。
※4
門倉純一
武田らがSF大会を志した時点でのファングループ連合会議議長を務めていたSFファン。本業はコンピュータ会社の社員だが、音楽・オーディオに造詣が深く、コレクターとしても有名。さまざまなSF関係のイベントでAV関係の企画を行っている。
※5
『宇宙軍』
SF作家・翻訳家の野田昌宏氏のファンクラブ。
氏が「宇宙軍大元帥」を自称しているため、会員には「軍曹」「二等兵」などの階級を与えられる。
TVプロデューサーとしての野田氏に協力することも多い関係からか、イベント活動を盛んに行っていた。
小説の創作活動と無縁であるあたりも、DAICONグループと符合し、協力しあうことも多かった。映像・出版・ゲーム等の業界関係者を多く輩出している。
現在でも「SFクリスマス」を定期開催するなど活動を継続している。
※6
井上博明
アニメーションプロデューサー。SF作家野田昌宏氏のファンクラブ「宇宙軍」の活動を通じて武田らと知り合う。
手塚プロダクションからアニメーション業界入りし、岡田に誘われてガイナックスの設立に参加した。「王立」「トップ」でプロデューサーをつとめたが、その後ガイナックスを離れる。10年におよぶ没交渉ののち、現在所属するA.I.C(アニメインターナショナルカンパニー)でガイナックスとアニメーションを共同制作するなど、ふたたび仕事仲間となっている。
「よぉ○○ちゃん、元気してるぅ?」が挨拶言葉の業界人。現在も「宇宙軍」のリーダーとして活躍中。
※7
「SFショウ」
1973年に野田昌宏氏が開催したSFイベント。当時のSF大会などのファンイベントでは、参加者の自主企画や作家のパネルディスカッションなど静的でアカデミックな企画が多かった。それに対しSFショウは、TVプロデューサー野田氏が腕を振るい、その名のとおり舞台を主としたエンタテインメント性の高いイベントとして企画されている。第3回まで、野田氏を中心に東京で開催されてきたが、野田氏の好意で4回目もSFショウの開催を許してもらった。

初めてのイベント
 井上さんとは、岡田君が入会していた宇宙軍の大阪例会に行ったときに初めて会った。ぼくは宇宙軍に入会していなかったが、「東京から井上さんという宇宙軍の責任者がくるから」というわけで例会に参加し紹介してもらった。てなこともあって、東京まで野田さんに会いに行って許可をもらい、「第4回SFショウ」という看板を借りてイベントを開くことになった。ちなみに井上さんはのちに設立されるガイナックスの創立メンバーにもなる。
 この時期に同様にこの宇宙軍に参加してぼくと知り合った人物がもう1人いる。澤村武伺※8である。この澤村君は変わった経歴を持っていて、お父さんが人形浄瑠璃の振付師で、芸人の家に育ったという。大映映画の『大魔神』※9の子役としてスタジオに入ったところ、巨大な大魔神を見て怖くて泣いて出演できなかったとか、『マグマ大使』※10の子役候補だったなど、小さな頃は子役として活躍したこともあるそうだ。もっとも澤村君は役者はいやでその道にはいかなかったらしい。澤村君は宇宙軍で知り合った岡田君から関S連の存在を聞き、わざわざ自分の大学にSF研究会を設立して関S連に入会してきたという行動力のある人物だった。澤村君と知り合ったことがその後のぼくらの精力的な活動の大きなポイントになる。ここ一番の度胸がいいというか、「役者やのう」というのか。初めてのイベントで舞台周りのプロの専門家に対してやや気後れしていたぼくたちだったが、澤村君はお父さんの知り合いの舞台の専門家の名前を出してあっという間に舞台裏のイニシアティブを握った。あとあと澤村君に「さすがに舞台のことは詳しいなあ」と言ったところ「僕は舞台のことは何も知らん。親父の知り合いの名前をだして押し切っただけや」と言っていた。あっぱれである。
 さて、肝心のSFショウであるが、主催が関S連でステージ中心のイベント。関西芸人も出たけど、手品とか落語とかSF創作バレエとか、まぁ「なんでこんなもんまで」みたいなものも詰め込んだイベントだった。アシノコンでぼくらが不満を感じた部分を解消するため、お客さんを満足させる演出を主眼にした結果だった。
 オープニング※11には、船舶振興会から借り出した『ムーンウォークワン』というアポロ11号のドキュメンタリーフィルムのロケット発射シーンをオープニング映像として使った。
 そのとき来ていた小松左京さんが「こいつらこんな映像どっから持ってきたんだ」って驚いたそうだ。じつは前年に船舶振興会が開催した宇宙博覧会に、いろいろと宇宙関係、特にNASAのものが多く所有されており、無料の貸し出しもしていたのを知っていたので普通に借りてきただけなのである。アシノコンの前に見た宇宙博覧会とこんなところでつながっていたのは面白い出来事である。
 第4回SFショウは「星群の会」にも手伝ってもらっていて、その会でその後ぼくの奥さんとなる菅浩江※12と知り合った。といっても、そのとき菅浩江は14歳で、まだ中学3年生。もちろん知り合っただけである。しかし、大学生になってからSFファン活動に参加したぼくからしてみれば、中学生でSFファン活動、というよりプロの作家を目指して創作をしている人間がいるということには驚いたもんである。くどいようだけど、このとき彼女と付き合うようになるとは想像すらしなかった。
 このSFショウには「スタジオぬえ」からも参加してもらった。それもコスチュームショーに出演である。その後マクロス(後述)やゼネラルプロダクツ開店にともなっての協力等で現在に至るまでいろんな意味でよき先輩となっている。特に高千穂遥氏※13には個人的にも付き合いがあり夫婦ともなにかとお世話になっているが、この時点ではまったく考えさえしなかった。
 そんなこんなで終了したSFショウの結果には満足した。お客さんの評判も上々だった。だけどSF大会はやっていない。ぼくらはダイコン3に向けて動き出した。79年のことである。
のーてんき用語/人物事典
※8
澤村武伺
ガイナックス元代表取締役。
「宇宙軍」の活動を通じて岡田と知り合い、SFショウの中心スタッフとなる。現場での押し出しが強く、SF大会やDAICONFILMの活動においては強力な推進役だった。1983年追手門大学卒業後、野田昌宏氏のTV制作会社「日本テレワーク」を経てゼネラルプロダクツ入社。いったんはゼネプロを退職するが、数年後岡田に招かれてガイナックスの代表取締役に就いた。2000年ガイナックスを退職。
「王立宇宙軍」ネッカラウトのモデルとなった人物。
※9
『大魔神』
大映製作の特撮時代劇。身の丈8メートルの魔神像が、虐げられた農民を救うために生命を得て動き出す。
緻密に作られたミニチュアの破壊シーンが、特撮ファンの語り草である。
※10
『マグマ大使』
手塚治虫のマンガを原作としたピープロ製作のSFTVドラマシリーズ。宇宙からの侵略者ゴアの操る怪獣を、地球の守護者アースが生んだロケット人間マグマ大使が迎え撃つ。山本直純による音楽が小気味よい。
※11
オープニング
SF大会ではDAICON3の数年前から、オープニングセレモニーのために映像を上映することが多くなった。大会の「掴み」とすることが目標であろう。既存SF作品のコラージュのようなものや、コンピュータグラフィックの実験作のようなものなど形式は定まっていない。この映像を自分たちで製作するとなれば、開催側にとってはスタッフのモチベーションを当日まで引っ張る旗印ともなる。
1981年のDAICON3では、庵野秀明らの参加でセルアニメーション「DAICON3オープニングアニメ」を製作し、話題となった。
※12
菅浩江
SF作家にして武田康廣の妻。
高校在学中に17歳で短編「ブルーフライト」でプロデビュー。「メルサスの少年」「そばかすのフィギュア」で星雲賞受賞。「永遠の森 博物館惑星」では2001年の日本推理作家協会賞を受賞した。日本舞踊の名取りでもある。SFショウ以来、武田の係わったSF大会ではスタッフとして奔走している。愛娘とともに京都在住で、武田は単身赴任状態である。
※13
高千穂遥
スタジオぬえ所属の小説家。「クラッシャージョウ」「ダーティーペア」の両シリーズで知られる。
アニメに対する想いも熱く、評論の舌鋒は鋭い。1980年アニメック誌上で「ガンダムはSFではない」と宣したことは当時のアニメ界にセンセーションを巻き起こした。
何かと武田とは懇意で、ガイナックス周辺でお見かけすることが多い。

日本SF大会開催への道
 ショウをやったおかげで、SF大会をやれるという自信も、根回しのためのコネクションもできたし、はからずも先輩らの言っていた「経験」も積むことになった。何よりSFショウは日本SF大会のための最高のリハーサルになった。
 本音を言えば、いきなりSF大会を成功させる自信はあったのだけど、確かに開催してみなければわからないことも多かった。
 その頃のぼくらの原動力は、東京のファン憎し、ファングループ連合会議憎し、東京もんにまけてたまるかって気持だった。
 当時出会った東京のファンっていうのは、なにかというとすぐに、東京の地の利で作家とか出版社の人間と親しいことを鼻にかけているような人物が目立った。そう見えた。一番頭に来たのは、ぼくらが何か言うと、「あぁ、それね」などと言うことだ。「何でも知っている、ぼくは知らないことはありません」的な態度に出るのがたまらなく嫌だった。おまけにすぐ人を見下したような態度をとり、自分が優位に立たないと気がすまないような発言ばかりが目立つ人物も多かった。まぁ当時、ぼくらもそうだけど、SFファン自体が幼稚だったのではないだろうか。SFファンの論争自体がすぐ子供の喧嘩みたいに興奮したものになっていったのもそういう理由だからかもしれない。
 どちらにしろ、関西のファンの中でもぼくらは、古い言い方をすれば「新人類」に見えたようで孤立気味だった。別にぼくらが相手かまわず人にかみついて回ってたわけではないんだけど、ある意味ツッパリに見えていたのかもしれない。ツッパってたつもりはまったくなかったんだけど、今から振り返って思い出せばかなりツッパっていたかなあ。
 話が逸れた。
 SFショウは本家の日本SF大会を食うくらいのつもりでやった。当時から「SF大会なんでもありなんでしょう? SFって何でも受け入れる度量があるんでしょ?」という考えがあったから、古いSFファンから「こんなもんSFじゃない」※14と当時言われていたアニメや特撮を積極的に取り上げたりした。当時のスタッフの多くがすでにSFファンとアニメファンが混在していたことも影響している。そのせいでますます先輩たちとの距離が広がったみたいだけど、逆にプロの人たちは、ぼくらに好意をもってくれてたようだった。「こいつら無茶苦茶やけど、えらいがんばってるな」って感じで。
 小松左京さんが「おまえら面白いから使ってやろう」ってことで「大フィル祭り※15」の裏方に呼んでくれた。「大フィル祭り」というのは大阪フェスティバルホールでやる大阪フィルの公演で、その舞台裏の小間使いみたいなことをやった。もちろん運営の中枢にいたわけじゃない。だけど大きなホールの舞台裏の空気を肌で感じ、かなりためになったと思っている。指揮者の朝比奈隆氏も生で見られたし、なによりも「小松さんに認められた」という思いが強かった。
のーてんき用語/人物事典
※14
「こんなもんSFじゃない」
SFファンという人種は物事が「SF的」であるか否かに非常にこだわる。
その定義自体にも多論があるが、その論争こそがSFファンのアイデンティティであるためさらにタチが悪い。「センス・オブ・ワンダー」があるかどうかが問われるが、その言葉自体はそれ以上に定義困難なのだ。多分にあまのじゃく的な評価が下されることが多く、「あの作品は確かに良くできているが、SF的にはてんで駄目だ」というのがSFファンの常套句である。逆に、目新しいことは何でも面白がってやろうという気質から、何でもかんでも「SF的だ」と評する一面もある。
※15
大フィル祭り
小松左京ら大阪在住の文化人が中心となって「大フィル(大阪フィルハーモニー交響楽団)」をもっと世に知らしめることを目標にイベント的なコンサートが企画された。地元の市民に「もっと交響楽に親しんでもらおう」という啓蒙的な一面もあった。
SFショウの成功で小松氏に気に入られた武田らは、舞台の裏方でこのイベントの手伝いなどをした。

この記事は『のーてんき通信 エヴァンゲリオンを作った男たち』(2002年発行・ワニブックス刊・武田康廣著)からの抜粋再録です。文中の役職や会社名・所属などは2002年当時のものです。