「3分映画宴」上映作品募集中!(9月30日まで)

鳥取県米子市にて開催される「米子映画事変」。今年は10月31日(金)の前夜祭から11月3日(月・祝日)まで開催されます。
このイベントの目玉企画が「3分映画宴」。3分以内であればジャンル不問、どんな映像作品でもOKな、気軽に応募出来る自主制作映像コンテストです。そうそうたる審査員の有名監督陣に自分の作品を見てもらうチャンス!
この機会にチャレンジしてみませんか?

「3分映画宴」では、全応募作品の中から選ばれた30本前後の作品が上映されます。
このイベント最大の特徴は、上映された全ての作品にその場で講評がつくということ。
司会のアニメ会(お笑いユニット)の軽快なツッコミが会場を沸かせます。

上映される作品の中から5作品が抽選で招待作品として選ばれます
招待作品は代表者1名様を米子にご招待します!
招待作品以外でも、上映作品の関係者が「3分映画宴」に来られた際は、記念品として『米子映画事変スペシャルお土産セット』を贈呈します(1作品につき1セットずつとなります)!
皆さまからのご応募、お待ちしています!

詳しくは「3分映画宴」公式サイト応募要項をご覧ください。
こちらでも3分映画宴の最新情報を発信しています。

応募締切
2014年9月30日(火)
審査員
本広克行(映画監督)
「踊る大捜査線The Move」シリーズ監督 他
高山由紀子(脚本家・映画監督・小説家)
「メカゴジラの逆襲」脚本 他
岡本みね子(映画プロデューサー・映画監督)
「ゆずり葉の頃」監督 他
赤井孝美(米子映画事変実行委員長・クリエイター)
「ネギマン」監督 他

関連リンク


第4回「SFイベントとのファーストコンタクト」「関西芸人」

SFイベントとのファーストコンタクト
快傑のーてんき ローカルコンは、日本SF大会とは別に地方のファングループが地元で開催するイベントだ。ローカルコンべンションの略ね。年に1度の日本SF大会とは別に小規模なファンイベントが全国のあちこちで開催されていた。
 行ったのはゴールデンウィークに一泊二日の日程で、香川県で開催された「SFフェスティバル78(略称セトコン)」というイベント。
 具体的な場所の記憶はあやふやだけど、確か栗林公園の近くの国民宿舎みたいなところを貸し切りにして開催されたイベントだったと思う。ぼくらのようなファンはもちろん、デビューして間もない夢枕獏さん※1が来てパネルディスカッションをやったり、同人誌でバリバリに活動しているBNFがいたりした。うちの後輩の後藤さんがそんな人たちに混ざって舞台に出ているのを見て、あらためて感心した。
 知らない人間がいたらどこがSFのイベントなんだと思われるかもしれないけど、四国らしく讃岐うどん早食い競争があったり、広間で勝手に車座になってバカ話に花を咲かせたりした。
 夜になると酒も入り、ますますヒートアップ。こっちの女性の集団がオタク話で盛り上がっているかと思えば、あっちではひたすらまじめにSFについて論議している。そうかと思えば古本を持ち込んで売ってる奴がいたりして、不思議な雰囲気を醸しだしていた。そしてぼくはその雰囲気が嫌いじゃなかった。いや、どっちかっていうと馴染める雰囲気だったのだ。
 そう、このイベントでぼくはその後のぼくの人生に大きく影響を与える人物と出会う。
 岡田斗司夫※2、のちにSF大会やゼネプロ、ガイナックスを一緒にやることになるその男は最初、関S連がらみの友人から「今度、うちの大学に武田さんそっくりなやつが入ってきた」という話だけを聞いていた。大阪電気通信大学の大西君というのがその友人で、彼もこのイベントに参加していて、岡田君を紹介してくれた。
 その当時はまだオタクという言葉がなかったんだけど、第一印象はまさしく「こいつオタクだ」という感じだった。「まるで女性のように長く伸ばした髪、変に熱っぽい語り口。彼がぼくに似てるんか?」そう思った。
 まぁ似てるっていわれれば似ているかもしれない。けどうれしくないし、そのときはそんなに話をするでもなく。親しい友達になったわけではなかった。
 それはともかく、ローカルコンがこれだけ楽しいんだから、日本SF大会はもっと楽しいに違いないってんで、すで申し込んでいたその夏の第17回日本SF大会、通称アシノコンにも大きな期待をもって参加した。
のーてんき用語/人物事典
※1
夢枕獏
SF作家。「キマイラ」シリーズ、「魔女狩り」シリーズなど、幻想的作品を多数執筆。「陰陽師」は一大ブームを巻き起こした。釣り、登山などアウトドアの活動でも知られエッセイや旅行記の著作も多い。
デビューまもない頃からイベント等でお会いすることも多く、以来親しくして頂いている。
※2
岡田斗司夫
株式会社オタキング社長。
1978年に出会って以来、武田の人生にもっとも大きな影響を与えた人物。
1982年、SFショップ「ゼネラルプロダクツ」を開店、1983年株式会社ガイナックスを設立し社長に就任した。
ガイナックス退職後は、東京大学非常勤講師(1992~1997)を勤めるなど「オタク文化」を論じて注目を集めた。
現在は作家やテレビコメンテーターとして活躍中。著書に「ぼくたちの洗脳社会」「オタク学入門」など。

関西芸人
 さてアシノコン※3である。
 日本SF大会はもともとがアメリカでやっている世界SF大会(ワールドコン)みたいなのを日本でもやろうってことで始めたイベントで、第1回は東京の目黒で開かれた。大会には愛称というか略称が、これもワールドコンに倣ってつけられていて、~CONというのが定番。17回大会は芦ノ湖畔で開催されるのでアシノコンという。ちなみに第1回大会は東京の目黒で開催されたのでメグコン。のちにぼくらが開催するのがダイコン。大阪でやるから大コンというわけだ。
 香川のイベントで期待を膨らませたぼくは、東京経由で芦ノ湖へ向かった。
 なにせ夏休みの真っ最中である。住んでいる大阪から東京の品川で船舶振興会主催の宇宙博覧会※4をSF研の仲間と一緒に見てから芦ノ湖に向かおうという大名旅行を計画したのだ。
 まぁ大概のSFファンの例に漏れずというか、大阪万国博覧会以降、ぼくは宇宙とかロケットとかがますます大好きになっていた。宇宙博覧会は月着陸船とか月面探査車とかサターンロケットとかをアメリカから持ってきて展示しているから、それを見て更にSF大会で盛り上がろうという予定だった。今考えるとそれはかえってよくなかったかもしれない。
 アシノコンは二泊三日の大会で、ローカルコンと違い、プロの作家や編集者なども大勢参加していた。
 ファンとプロが近いSF界といっても、東京と違って大阪にいるとそうそう作家と親しくなれる機会は多くない。SF大会は普段交流できないような人々と同じ空間を共有できるというので期待はいや増すばかり。
 ところが実際に参加してみると、なんだか楽しくない。1日目、パーティーもあって作家さんのそばで話も聞けた。これはうれしい。でも、他には? 何だかおかしい、こんなはずじゃなかったのに。それがそのときのぼくの感想。「入れ物は用意しました。みんなあとは適当にどうぞ」って感じがして、ぼくとしては不満だった。SFが足りないというか主催者側のホストとしての配慮が行き届いていないというか。せっかくの3日間をどっぷりとSF漬けにしてほしかったのだ。大会初心者に対するフォローがないとも言えたし、知り合いだけで盛り上がっている雰囲気が感じられて、結局ぼくらも仲間うちで固まってしまう。だから2日目の昼間なんかは、SF研の仲間たちとロープウェイに乗ったり、ようするにSF大会に来ているのに、その辺を観光して歩いてたというわけだ。観光自体を大会企画として狙っていればそれなりに面白いと思うが、同じ釜の飯を食うというか、同じ体験を共有するということが重要なことだと思う。
 このときのパーティーで、せっかくなんでコスプレ※5しようってことで(もっともこの時代まだコスプレという言葉はなく、仮装って言っていた)トイレからトイレットペーパーを盗んできて仲間の一人の体にまきつけ、ペーパーの芯を二つに切って目の部分に貼り付け、「スター・ウォーズのタスケン・レイダー」と言い張った。そのとき仮装した仲間の体のペーパーを「変なの」と言いながら千切り取る子供がいた。「こら!」と、その子供の頭を張り飛ばした。ところが、横に居た人が驚いて「その子豊田有恒先生※6のお子さんだよ」と言うではないか。……まぁ、時効であろう。
 とはいえ、セトコン、宇宙博覧会と結構盛り上がっていたぼくの感覚からすれば、今回のアシノコンはあまりにも何もないに等しかった。主催者には悪いけど、ほんとうにそれぐらいの期待はずれだった。勝手に期待して勝手にがっかりするなよと言われるかもしれない。
 とはいえ、面白くないって思っていたのはぼくらだけではなかったようで、晩飯を食ったあと、岡田君やその他のSF研究会の仲間と合流し、居場所もないので、自動販売機なんかの前でいきなり車座になってしょうもない話を始めた、岡田君とは知り合いになったばかりという程度の仲だったにもかかわらず、その場で「もし宇宙戦艦ヤマトが中国で作られたら※7」とか即興でネタを作って話をしたり、ゴジラやスターウォーズをネタにSF形態模写をやったりしながら盛り上がっていた。
 そうこうするうちに回りにぼちぼちと見物人が増えはじめ、ぼくらのバカ話を聞いて受ける。受けると嬉しいからさらに何かやる。また受ける。このとき、ぼくは初めて人前に出て何かをするという快感を覚えてしまったわけだ。調子に乗っただけとも言える。
 自動販売機前の芸は夜10時くらいから結局朝方まで、都合8時間くらいやっていたことになる。朝になったら朦朧としていた。朝飯食う気力もないくらいに消耗していた。
 ところがいつのまにかエンディング前に舞台に立つという話になっていた。ぼくらのバカ話を聞いていた大会スタッフが「折角だから、もっと大勢の前でやったら面白い」と考えて無理やり時間を作って話を持ってきたらしい。このときのスタッフが後の「アニメック」編集長の小牧さんだった。それを聞いた岡田君が「時間を三十分もろたからやれるよ」と言う。ぼくが「もうええわ、疲れた」と返すと「何言うてんねん。ここまできたらやらんでどうすんねん」と言う。
 ほんとは「何がここまできたらやねん」と思いはしたものの、そこまで言われてやらないわけにはいかんと舞台に立った。むろんぼくも岡田君も舞台に立つなんて初めての経験だった。でもまぁ、一晩かけてリハーサルを繰り返したようなもんだったから、ネタは練れてるし間もとれてる。自分で言うのもなんだが、受けた。「SF話芸」と言われ、今までそんなことしたやつもいなかったみたいで、「関西芸人」と名付けられ、以後何年かにわたって、あちこちで舞台に立つことになる。
 ずいぶんインパクトが強かったようで、顔と名前が一気に売れた感じだった。
 アシノコンの最後がそんなだったこともあり、ますますSFどっぷりの未来が待っていた。「受ける」ということの気持ち良さを知ってしまったのかもしれない。
のーてんき用語/人物事典
※3
アシノコン
1978年、2泊3日で箱根、芦ノ湖畔で開催された合宿形式のSF大会。参加者数は約400人。参加者による自主企画を中心に据え、ショー的な要素を意図的に抑えた大会だった。
※4
宇宙博覧会
1978年、日本船舶振興会が主催した宇宙開発をテーマとした博覧会。東京、品川が会場となった。
本物のサターンV型ロケットや、当時開発中だったスペースシャトルのモックアップ、月面探査車など、当時の「科学好き」にはたまらない展示物が多数出品されていた。
※5
コスプレ
「コスチューププレイ」すなわち仮装してそのキャラクターになりきる「遊び」である。今でこそ「コスプレ」といえば「コミケ」だが、日本における発祥は間違いなくSF大会である。当時のSF大会では「コスチュームショウ」という名称で仮装ファッションショーをプログラムに入れることも多かった。
※6
豊田有恒
古代史をモチーフとした作品として知られるSF作家。代表作に「パチャカマに落ちる陽」「モンゴルの残光」など。放送作家としてのキャリアもあり、「鉄腕アトム」や「エイトマン」の脚本を手がけていたことも有名。
※7
中国版宇宙戦艦ヤマト
「宇宙戦艦ヤマトを作って乗り込んでいるのが中国人だったら…」というネタの話芸。
「発進の時には銅鑼を鳴らす」とか「砲塔には龍の模様が入っている」とかたわいの無いギャグを織り込みつつ、ヤマトのストーリーを再現する芸。バリエーションも多く、「アメリカ版」や「ロシア版」はもちろん「ウェスタン版」などもある。また形態模写も武田岡田コンビが得意としたネタで、「ゴジラの熱線を受けて溶ける鉄塔」や「宇宙ステーションにドッキングするオリオン号(出典:2001年宇宙の旅)」や、「サンダーバード2号のコンテナから発進して活躍するジェットモグラ」など、映画の名シーンを人間の体で再現する体当たりの芸。他にも「Xウィング対T-Eファイター」「ミステロンドームに突っ込むモゲラ」とか、その場その場で開発しながら芸を磨いていた。

この記事は『のーてんき通信 エヴァンゲリオンを作った男たち』(2002年発行・ワニブックス刊・武田康廣著)からの抜粋再録です。文中の役職や会社名・所属などは2002年当時のものです。


第3回「SF研との出会い」「関西学生SF研究会連盟」

SF研との出会い
快傑のーてんき 2年生になったとき、新入生向けの勧誘ポスターを見つけて、ようやくSF研に入会できた。ここでようやくSFの話※1をできる大勢の仲間とめぐり合うことになった。
 ぼくは自分で結構な量の本を読んでると思ってたけど、SF研に入ると、まぁこれが驚くべきことに先輩たちは僕以上にむちゃくちゃな量を読んでいる。話をしてみればとにかくいろんなことを知っていて、ひとつの話からあっちこっちいろんな方向へ飛んでいってはまた元に戻り、また別の方向へいく。もうただ話をしているだけなのに楽しくて楽しくてしかたがなかった。もうSF研に入り浸り状態。と言っても大学の公認団体じゃなかったので部室もなく、喫茶店のハシゴを繰り返していたが、いつも最終的には「サンセットイン」※2という大学の正門近くにある喫茶店に落ち着いた。どのくらい落ち着いたかというと、20年たった現在もこの「サンセットイン」がSF研の例会場所になっているのだ。この前久しぶりに「サンセットイン」の人々と会ったのだが、当時小学生だった娘さんがすでに大学を卒業していたのには、ほんとうに時間の経過を感じた。ちなみにお約束なので、その娘さんには「昔は一緒にお風呂に入ったじゃないか」と言っておきました。でもこの時代、こういったなじみの喫茶店があるということは日本全国のSF研やSFサークルではあたりまえのことだっだようだ。
 SF研に入ってからの大学生活はただただひたすら楽しかった。仲間たちはひと癖もふた癖もあるやつらばかりだった。
 たとえば水野※3という今は警官をしているひとつ後輩がいた。こいつはSF小説はもちろん好きで読んでいるけど、それ以上に映画が好きで沢山観ていた。当時公開されてた『リビングデッド』、いわゆるゾンビ映画がどうしたわけか大好きで、その映画の話ばかりしている。で、短絡的だけどゾンビというあだ名がつく。
 たとえば三輪※4という後輩は、SF以外には落語が好きで、ネタ振りをするとすぐ落語を始めてしまう。三輪は後にゼネプロの取締役を一時務めることになる。
 たとえば先輩(当時でもうOBだった)の岡本安司※5という人がいる。ヤッシとか、やっさんと呼ばれていたけど、この先輩はファンダムのSF大会等で司会やしゃべくりで有名だった。意外に思われるかもしれないが、ぼくは人前で話をするのが苦手で赤くなってしまう。そんなぼくの人前でのしゃべくりの師匠に当たるのがこのやっさん。
 それ以外にもアルゼンチン帰りの先輩(でも同学年)の池田さん6※とか、新入会員のころから顔が栗饅頭そっくりという理由だけで、20年以上も「クリマン」と呼ばれ続けている後輩(現在ガイナックスにいる)外山※7とか、どちらかといえば、変人に近い連中ばかりだった。こういった怪しさは当時どこのSF研や漫画研究会、ミステリー研究会でもやっぱり同様であったらしい。
 SF研の頃はファン活動がしたいというようなことより、SFの話をできればよかったと思う。いや、むしろSFという同じ趣味を持つやつが集まっての馬鹿話がメインだったかもしれない。
 ところがSF研にぼくと同時期に入った1年先輩の後藤さん※8という人は違っていた。この人は京都にある創作グループの『星群の会』※9に入っていて、自分でも小説を書いていた。ぼくが出会った初めての「プロ作家になりたい」と言っているSFファンだった。というより、自分のビジョンを自ら人に語って聞かせる人物に人生で初めて出会ったといえる。これは結構、ぼくに衝撃を与えた。後藤さんは本当に顔が広くて『星群の会』だけじゃなく、大阪以外の地方のSFファンダムとか、当時のいわゆるBNF(ビッグネームファン)※10みたいな人たちとも交流があった。その後藤さんがある日ぼくに「関西近辺の大学のSF研の連絡網みたいなのを作りたいと思ってる。おまえも手伝ってくれんか?」と言うわけだ。ここから急転直下。SF研に入り浸りで授業もさぼり気味だったぼくの、ますます学校に行かない日々が始まることになった。というか、これこそがぼくのその後の20数年間への第一歩だったかもしれない。
のーてんき用語/人物事典
※1
SFの話
特にSF小説の評論をしあうわけではない。同じ趣味を持ったもの同士で、他の人々には敬遠されがちな話題で盛り上がることが楽しかった。
要はマニアックなバカ話である。
※2
「サンセットイン」
近畿大学の正門手前を左に曲がったところにある喫茶店。
いつの頃からかSF研の溜まり場となった(聞くところによると、20年以上たった今でもそうらしい)。マンガ研究会も同じ場所を溜まり場にしていた。武田の在学中、卒業後も店を拡張しているところを見ると景気はイイのか? 3年前、マスター念願のペンションを白馬にオープンした。
※3
水野喜代志
近大SF研で武田の1年後輩だったが、武田が留年するやいなや「今日からは同学年や」といきなりタメ口になった。武田に厳しくあたる人物の第一号となった。特撮映画、ホラー映画のマニア。現在は警察官。
※4
三輪基博
近大SF研の後輩。学外でもファン活動をしていた初めての友人。彼を通じて知り合った人物も多い。
デザイン・編集担当でゼネプロに入社。猛烈に寒い駄洒落を飛ばし「センスの神様」の異名をとる。変なおもちゃをどこからともなく探してくる名人。1988年失踪。
※5
岡本安司
近畿大SF研のOBで、当時のSF大会をはじめとするさまざまなイベントで司会役をしていた。武田たちの前の世代で幅広くファン活動を行っており、顔も広かった。早いテンポの大阪弁での強烈なツッコミは印象的で、今でも古手のSFファンは「今ここに岡本安司がいたらこう言うね」などと口にするらしい。
武田の話術の師匠である。
※6
池田秀紀
近大SF研の先輩。父親の仕事の都合で3年間ばかりアルゼンチンで過ごしたらしい。物事をはっきりさせないと気の済まない気性で、何かにつけて理路整然と意見を呈されたのは、武田にとって印象強い経験だった。
※7
外山昌平
近大SF研の後輩。
その風貌から「クリマン」と命名したら、20年以上その名前でしか呼ばれていない。現在もガイナックスに在籍しているが、本名を知る人は少ない。風貌、性格ともに「王立宇宙軍」のチャリチャンミのモデルになっている。
※8
後藤俊夫
近大SF研の1年先輩だが留年していて、武田と同じ2年生として出会った。後藤俊一というペンネーム(ひょっとすると本名と逆かも)で小説を書くなど、武田が初めて出会ったプロ志向の人物。
※9
『星群の会』
京都(現在は大阪)をベースに活動していたSF創作同人誌グループ。
1971年活動開始の老舗サークルで、プロになることを視野に入れて活動する人も多い。菅浩江や水野良といったプロ作家を輩出している。
※10
BNF(Big Name Fan)
プロというわけではないが、積極的にSFファン活動を行って名が売れた人たちをこう呼んだ。敬意をもって呼ばれるはずの呼称だが、揶揄する場合に使われることも多い。プロの出版社では作品を発表していないが、ファンでは有名な作家、評論家など。ファンに対する「影響力」に重きを置いているところが、最近の「コミケ作家」とはちょっと違うか?

関西学生SF研究会連盟
 あの当時、世の中はSFブームみたいなことになっていて、だいたいどこの大学でも規模の大小はあれSF研が存在していた。
 面白そうだからというだけの理由で、あっちこちの大学のSF研と連絡をとったり、連絡組織設立の呼びかけや、会議等とまぁいろいろ手伝ってた。この時設立された「関西学生SF研究会連盟」※11、通称「関S連」がのちにぼくらが初めて主催したSFイベント「第4回SFショウ」の運営団体になる。
 この時代はまだほんの少しだけ学生運動の影響が残っていたらしい。その残滓というか燃えカスのようなものが関S連の勧誘に行ったときに感じられた。というのも他校のSF研究会の人間が突然やってきて「あーだこーだ」と話をするのが気に入らない様子なのだ。ようするに自分たちのSF研究会のことは自分たちでする(自治する)ってな感じだった。当たり前だが、ぼくは学生運動にはかけらも触れていなかったので、最初は戸惑ったもんである。「オルグ」だの「プロパガンダ」といった聞いたこともない単語がでてきた。でも、そういうことを言っている人たちもよくわかって言っているようには思えなかった。そのうちそういう連中とは付き合わなくなった。
 最初は近大を含めて参加大学は4~5校だったんだけど、面白いから熱心に動き回っていたら「あんたが事務局※12をやれ」って雲行きになって結局ぼくが初代事務局長になった。
 今となっては後藤さんの真意がどこにあったのかわからないが、この段階では関S連はイベントをする団体を目指すとかいうものではなく、本当に各大学のSF研の連絡会で、年に何度か連絡誌を出す程度の活動をしているだけだった。
 とにかくまぁ正直、ぼくにとって趣旨とかなんとかはどうでもよくて、何でもいいから面白いってのが大事だった。
 そんなことばっかりしていたもので、どんどん大学に行かなくなった。
 もちろんSF研の仲間とは相変わらず喫茶店で会っていた。
 その頃のぼくの一日は、目が覚めると溜まり場になっていた喫茶店に行って、コーヒーを飲みながらSFを読む。仲間が集まってくるとバカ話で盛り上がり、日が暮れると飲み屋に場所を移してさらに盛り上がるという次第。毎日が楽しかった。
 必然的に大学は留年し、2度目の2年生をやることになってしまった。
 そんな生活の中で、初めてSFのイベントに行くことになる。
 直接のきっかけは忘れてしまった。近大SF研の後輩の三輪が高校生の頃からファン活動をしていて、SF大会※13にも行っていると言う。聞けばSF研や関S連の仲間たちも行く人間が多い。SF大会というのは、知ってる人には今さらな説明だけど、SFファンが主催するイベントで、年に1度開催されている。特に主催団体が固定されているわけではなく、「やりたい」っていう連中というかグループが手を挙げて立候補するので毎回主催者は変わる。だから大会の場所は全国にわたるし、企画内容や開催方式、開催日程も毎回変わる。都市型といって、東京や大阪のような都市圏では、会場と宿泊場所が別々の大会がある。特に宿泊する必要がない。またリゾート型といって、大きな会場が借りられない、もしくは宿泊が絶対に必要な地方で開催する場合、旅館を借り切っての合宿のような大会になる。そんな時は二泊三日の場合もある。もちろん、徹夜の飲み会にもなる。SF大会の参加には体力も必要である。それゆえに「SF大会の本番は合宿にこそある」という人も多い。
 その日本SF大会も2001年の大会で40回を迎えた。ということは40年続いていることになる。初期の大会主催者は現在では作家としても大物になっている人が多い。小松左京※14や筒井康隆※15、野田昌宏※16もSF大会の大先輩なのだ。SF大会はアマチュアが開催するイベントだけど、SF界は作家とファンの間か比較的近くて※17、ファンだけでなくプロの作家も多く参加している。このようなファンイベントはSF以外のジャンルでは考えられない。
 もくも存在はなんとなく知っていたけど、参加しようと思ったことはなくて、「へぇみんなそんなとこに行くんだぁ」って感覚で聞いていた。
 まぁ、一度くらい行ってみるかという気持ちで、香川県でローカルコン※18があるというので参加申し込みをした。
のーてんき用語/人物事典
※11
「関西学生SF研究会連盟」
大阪近郊の大学SF研の間の相互連絡組織。月一度の連絡会議と連絡誌の発行をしていた。
最盛期(DAICON4の頃)には、大阪大学、大阪府立大学、大阪市立大学、近畿大学、追手門大学、龍谷大学、大阪外語大学、大阪電気通信大学、大阪芸術大学の9行が加盟していた。
相互交流に熱心だった1980年代のSFファンの活動の一つで、SF大会やDAICONFILMへの人材供給に貢献した。
DAICON4以降は求心力を失い、数年で自然消滅したと思われる。
※12
事務局
この種の団体は、特定の活動拠点を持たないため、連絡役を務める個人が「事務局」を名乗ることになる。
要は、複数の団体の連絡調整役ということ。
※13
SF大会
米国の世界SF大会(ワールドコン)を範として始まったSFファンの集会。第1回が1962年に東京で開かれてからすでに40回を数える。全国のアマチュアグループが持ち回りで主催し、年に一度(たいてい夏休みに)開催される。
毎回開催の形態は異なっていて、温泉地で開かれる合宿のようなものや、舞台での講演や上演が主のショウ形式のものがあったりする。
プロの作家、漫画家、翻訳家、編集者の参加も多く、また、大会の場での活動をきっかけにプロ活動をはじめるケースも多い。
1980年頃は、吾妻ひでおなどの漫画家による大会のレポートが話題になり、世間のSFブームとあいまって、大会に参加する事、大会を主催する事に注目が集まった時期でもあった。
主催団体は毎回入れ替わるが、大会の開催権は「日本SFファングループ連合会議」が管理している。
※14
小松左京
SF作家。「日本沈没」「さよならジュピター」など。
日本SF界の重鎮。1970年の万博でもテーマ委員をつとめるなど、その活動範囲は多岐にわたる。
SFショウのゲストに来てもらって以来、ファン活動をしていた学生の武田らを色々とかわいがって頂いたいただいた。地元大阪で活動していたこともあり、イベントの相談などに乗って貰ったことも多い。
武田が主催した2001年の第40回日本SF大会では、名誉実行委員長をつとめて頂いた。
※15
筒井康隆
SF作家。「時をかける少女」「家族八景」「虚航船団」など著書多数。氏が名誉実行委員長をつとめた1975年のSF大会「SIINCON」は、1,000人を超える参加者数もさることながら、ショウアップされたエンターテインメント性の高さはその後の大会の方向性に大きな影響を与えた。
1993年、言語規制に抗議して「断筆宣言」(96年に解除)。映画、演劇、テレビドラマへの出演などでも活躍中。
※16
野田昌宏(宏一郎)
TVプロデューサー、SF作家・翻訳家。TV制作会社「日本テレワーク」社長。
初期のSF大会を開催するなどした日本SF界の大御所。自称「宇宙軍大元帥」。
数多くのスペースオペラを翻訳し、自らも小説を執筆している。パルプマガジンのコレクターとしても有名。
辣腕のTVプロデューサーであり、ガチャピン・ムックで有名な子供番組「ひらけ!ポンキッキ」の生みの親。ファン活動の支援にも積極的で、武田らも大会の開催やゼネラルプロダクツの設立にあたってずいぶんお世話になった。実はガイナックス設立以来の監査役でもある。氏のファンクラブ「宇宙軍」は現在も活動を続けている。
※17
作家とファンが近い
TSF大会自体、まだ無名時代のSF作家たちが中心になって、ファン同士の交流を目的として開催したものである。SF大会での交流を通じてデビューに至った作家や編集者も多い。またSF作家たち自身が熱心なSFファンであるため、仲間を求めてSF大会にやってくるという側面がある。夜の合宿所で作家や編集者とファンとが車座で酒を飲むような光景はSF大会ではおなじみだが、他の分野では考えにくいことではなかろうか。
※18
ローカルコン
年に一度開催される「SF大会」に対して、各地のファングループがそれぞれ独自に開催する地方イベントをこう呼んだ。地方に根付いた活動であることもあって、長く定期的に開催されているものも多い。

この記事は『のーてんき通信 エヴァンゲリオンを作った男たち』(2002年発行・ワニブックス刊・武田康廣著)からの抜粋再録です。文中の役職や会社名・所属などは2002年当時のものです。


第2回「少年期のおわりに」「運命の大学入学」

少年期の終わりに
快傑のーてんき 子供の頃のぼくは、今で言うところのオタクではなかったと思う。
 物心ついた頃、家にはテレビはあったし、漫画雑誌も『少年マガジン』『少年サンデー』がすでに存在していた。その当時のアニメや漫画は何故かSF的設定のものが多くて、ぼくはそれらの作品たちにハマっていた。SFというか未来的な作品にある不思議な魅力、かっこいい未来にあこがれた。でもそれだけだ。それはその頃の子供としては、ごく一般的だった。テレビや漫画の他にも好きなもの楽しいものはいっぱいあったし、アニメや漫画ばかりにハマりきった子供時代を送ったわけでは決してない。
 ただ同年代の子らと少し違っていたのは、小説を読むのが好きだったことだろう。きっかけはもう忘れてしまったが、小学校4年くらいの頃から特に好きになって、同級生が校庭で走り回っているときにぼくは図書館に通っていた。好きな本を買うという時代ではなかったと思う。本が読みたいなら図書室である。そして読むのはひたすらSFと推理小説。もちろん小学生向きに翻案されたものだったが、むさぼるように読んだ。作品でいえば「ルパン」や「ホームズ」、作者ならば「クラーク」※1「ハインライン」※2等の60年代前半のSF作家たちだった。いわゆる「基本」の作家である。もちろんその他の作品作者も多数読んだ。あげくの果てに小学校5年生のとき、「ずっと図書館にいられる」という理由で図書委員になった。ほんの少しでも本を読んでいる時間が欲しかったからだ。今考えると残念なのは、読んだ本のことを語る友達を身近で積極的に探さなかったことだろう。
 初めて創元や早川※3の、いわゆる子供向けじゃないSFに出会ったのは小学校6年生のときだった。その初めての本が『グレイレンズマン』。でも実はこれは読んでる途中で理解できずに投げ出した。理解できないんだから面白いわけがない。面白くないものは読み続けられない。極めて単純な理由だ。SFファンならご存知だろうが「レンズマン」※4はシリーズ物で、そのシリーズ物の途中の1冊だけを小6の子供が読んでも理解できないのはしかたなかっただろう。
 もちろんそれくらいのことで本を読まなくなるようなことはなかった。そして次に出会った本がヴォクトの『宇宙船ビーグル号』※5。これが面白くて面白くていろんな意味で決定的だった。この作品に出てくる主人公の総合科学者が冷静で計算高く、そして目的に忠実なリーダーシップを発揮していてめっちゃかっこいいなぁと思った。ぼくの中の科学者※6像はこの作品によって形作られたと言ってもいい。同時にSFをますます好きになったのもこの本のおかげだろう。今でも2~3年に一度は『宇宙船ビーグル号』を引っぱり出してきて読み返してる。何度読んでも飽きない。
 今から考えるに、「文学的」な小説は挑戦してもすぐに飽きてしまってあんまり読んでいなかったように思う。ぼくをわくわくさせたのは、SFや推理小説、冒険小説ばかりだった。学校の課題図書は結構読んだけど、何であんなに児童文学は暗い話がおおかったのだろうか? まだ、戦争の影が残っていたからかもしれない。ベトナム戦争の最中でもあったし、日本人にとっても身近な戦争の記憶がまだリアルに反映されていたからかもしれない。少なくとも現在のテレビで見る「遠い戦争」ではなかったのだろうな。考えてみればぼくが生まれた1957年は、まだ太平洋戦争が終わってからわずか12年しかたっていなかったのだ。
 ちょうどその頃、アポロ11号※7が月に着陸し、しかもそれがテレビで生中継されている。今、この瞬間に人類が月に立っているんだと思うと興奮した。ずっとテレビにかじりついていて観ていた。ほんとうに科学ってすごいと思った。
 そして、ぼくの科学信仰をさらに決定付けたのは1970年の大阪万国博覧会※8だ。
 同世代の人には理解してもらえると思うが、大阪万博は科学がこれから実現していくであろうぼくらの未来の象徴だった。当然のようにアメリカ館には月の石が展示され、ぼくはもちろん見に行った。2時間並んで、ただの石コロを見たのだ。その石コロはしかし月から持ち帰られた石コロだ。ただの石コロとは石コロが違うのだ。明るくて、凄くかっこよくて、おしゃれな未来を含んで後光が差しているように感じた。
 繰り返しになるが、ぼくが特別だったわけではない。あの頃の子供、特に男の子は多かれ少なかれ同じような気持ちだったと思う。
のーてんき用語/人物事典
※1
「クラーク」
アーサー・C・クラーク。英国出身のSF作家。科学理論に裏づけされた近未来を舞台にしたSF作品を多数発表している。
代表作に「2001年宇宙の旅」「地球幼年期の終わり」など。スリランカに在住。
※2
「ハインライン」
ロバート・A・ハイライン。米国のSF作家。強烈な人生論に則ったメッセージ性の高く、かつエンタテインメント性の高い作品が多い。
代表作「宇宙の戦士」「愛に時間を」「夏への扉」など。
※3
創元や早川
東京創元社と早川書房の2つの出版社がSF作品のほとんどを刊行していた。
特に早川書房はSF専門誌「SFマガジン」を刊行するなど日本SF界を独力で支えていた感があり、「ハヤカワこけたら皆こけた」と自嘲的な言を吐く日本人作家もあった。
※4
「レンズマン」
E・E・スミス作のシリーズSF。
宇宙パトロールものの原点とも言うべき作品。いわゆる「スペースオペラ」のルーツ。荒唐無稽なスケールの大きさでファンが多い。
全7巻が刊行されている。「グレイレンズマン」はシリーズ中盤の作品。
1984年には日本で映画とTVでアニメ化された。
※5
「宇宙船ビーグル号」
A・E・ヴァン・ヴォクト作の冒険SF小説。科学者を大勢乗りこませた科学探査宇宙船「ビーグル号」の冒険談。様々な宇宙生命との出会いをイマジネーション豊かに描く。
※6
科学者
「ビーグル号」の主人公は「総合科学者(ネクシャリスト)」と呼ばれる万能科学者。科学啓蒙色の強い本作にあってはスーパーヒーローである。武田はこの「ネクシャリスト」を目指すべく、理科系に進んだ。
※7
アポロ11号
1969年7月20日、アポロ11号による人類の月面着陸が果たされた。着陸の模様がTVによって全世界に実況中継されたこと自体、一大ページェントだったと言える。アポロが持ち帰った「月の石」は1970年の大阪万博のアメリカ館で展示公開され、大きな話題となった。
※8
大阪万国博覧会
1970年、大阪北千里で開催された万国博覧会。第二次大戦後、未曾有の高度成長を成し遂げた日本が官民一体で成し遂げた大プロジェクトでもある。「人類の進歩と調和」をテーマとし、SF作家の小松左京もテーマ委員として参加した。
その「未来的」な雰囲気は当時の日本国中を高揚させ、小中学生は何回万博に行ったかを競い合った。

運命の大学入学
 科学信仰はもちろん進学にも影響を与えた。
 大学は近畿大学※9に入学し、原子力工学を学ぶことを選んだ。
 理由はしごく簡単。これからの世界は電気を中心に動いていくだろう。コンピュータであれ何であれ、ぼくの思い描いている未来はすべて電気で動いている。そして電気といえばこれからは原子力だろうと18歳のぼくは考えた。
 実際ほんの少しだが「原子力」というものを勉強してわかったことは「これムチャや」ということだった。人類に「原子力エネルギー」は荷が重い。それ以外の電気エネルギー源を考えるほうが未来のためだと思った。
 近畿大学は一流とはとても言いがたい、当時のぼくの感覚では二流の大学だった。学生がやたらと多い学校で、そのため敷地内には4階建て、5階建ての校舎がまさに林立している、そんなキャンパスだった。当時日本最大のマンモス大学の日本大学の学生数が7万人とかのとき、近畿大学にも5万人以上の学生がいいたはずだ。「すべての学生が出席すると教室が足りなくなる」なんていう噂がまことしやかに囁かれていた。とにかくでかい学校で、そのでかさが災いしてか、ぼくは1年生の時、入ろうと思っていたSF研※10を見つけることができなかった。
 中学、高校とSFを読み続けている間に『SFマガジン』※11と出会い、世の中にはSF研究会というような存在があるらしいことを知っていた。出会いという書き方をしたけれど、オーバーではなく、ぼくの住んでいた町は田舎だったから本屋に『SFマガジン』なんてたまにしか置いてなかったのだ。もちろん学校の図書館にもなかった。
 それまであまりSFのことを語れる友達が身近にいなかったせいもあって、大学に入ったらSF研に入ろうって漠然と思っていた。
 ところがそれが果たせなかった。理由は簡単で、近畿大学のSF研は大学の公認サークル※12ではなかった。だから冷遇されれていて学内にも部室はない。それどころか存在すら認知されてなかった。そんな状況なので入学時期に貼ってあったポスターを見つけられなかったから、SF研に入会することも当然ながらできなかった。ガチョーンである。
 SFのことを一緒に話せる仲間が欲しかったんだけど、でもまぁいなければもう我慢できない! 死んでしまう! というほどでもなかったし、そのときはそれ以上探さなかった。
 高校時代は近所の仲間とバンドを組んでベースギターを弾いていたし、スキーに凝っていてシーズンになればスキー場へ通うという生活も読書三昧の一方にはあって、SF研に入れなかった大学1年のときはその延長で遊んでいた。
のーてんき用語/人物事典
※9
近畿大学
大阪市に位置する私立大学。日本有数の学生数を誇り「ミナミで石を投げたら近代生にあたる」などといわれる。卒業生に朝潮、赤井英和など。最寄駅から大学正門に至る道筋は「親不孝通り」と呼ばれ、雀荘、喫茶店、ゲームセンターが目白押しで、駅を降りた学生が教室にたどり着くのをはばんでいる。
※10
SF研
SF研究会。たいていは大学の学内サークルを指すことが多い。
中には創作同人誌や未訳海外SFの翻訳などの活動を行うサークルもあったが、たいていは、マニアックなネタの通じる仲間と延々馬鹿話を続けるサークルであることが多かった。
1980年代中ごろからは、漫研、アニメ研、ゲーム同好会、特撮研究会などと融合するケースが多い。近年のメンバーは、20代のくせに1970年代のアニソンばかりカラオケで歌う。
※11
『SFマガジン』
早川書房刊行のSF専門月刊誌。1959年創刊。1983年頃にはSF専門誌が4誌も刊行されていた時期もあるが、休刊することなく発行され続けているのはSFマガジンのみ。SFマガジンを読んでいるかどうかが、正統派SFファンであるか否かの試金石だとする向きもある。
※12
公認サークル
大学公認のサークルとなると、学生会館に部室が確保できたり、大学祭の出店で良い場所を確保できたり、大学から活動予算が出たりと特典もある。
しかし、大学のイメージアップに特に貢献することの無いSF研究会などは、なかなか公認サークルになれないケースが多い。

この記事は『のーてんき通信 エヴァンゲリオンを作った男たち』(2002年発行・ワニブックス刊・武田康廣著)からの抜粋再録です。文中の役職や会社名・所属などは2002年当時のものです。

 


第1回「はじめに」

はじめに
快傑のーてんき 2001年夏、ぼくらは千葉県幕張メッセにおいて第40回日本SF大会「SF2001」を主催した。初めて主催した日本SF大会「ダイコン3」から20年目のことだった。「ダイコン3」以前から現在まで、いわゆる「活動」を始めてから24年を数えようとしている。24年前のぼくは「何も考えていない若者」であり「将来への不安より今の楽しみ」を優先する、典型的でどこにでもいる若いやつであった。
 そのぼくを変えていったのは「出会い」である。
 子供の頃ももちろんだが、なによりも、20代前半で若さと体力はあったが、目標なんてものはまったく無かったぼくの人生を、この20数年間にわたって変化させ続けたのは「出会い」、それも途切れることのない「出会いの連続」であった。
 そんななかで、なによりも最初にたくさんの「出会い」をもたらす大きなきっかけとなった「ダイコン3」から20年後の2001年に「SF2001」を主催したのだし、自分自身の活動の区切りとして今回、青春記という形でこの20数年間をまとめてみた。
 もちろん、ぼくの個人的な出来事を中心に思い出し書いているので、客観的な事実を踏まえた正確なものにはなっていない可能性もある。少なくとも嘘は書かないようにしているが、ぼくの記憶違いやそのときの思い違い等があった場合は「まあ、そんなもんだ」と思ってお許しいただきたい。
 また、ぼくらの活動、ダイコンからガイナックスにいたるまでの、「噂の真相」や「知りたいこと」に関しての事実を知る助けになればと思う。もっとも、そんなことを知りたいと思うのはかなりの「おたく」だと思うが……。

この記事は『のーてんき通信 エヴァンゲリオンを作った男たち』(2002年発行・ワニブックス刊・武田康廣著)からの抜粋再録です。文中の役職や会社名・所属などは2002年当時のものです。


短期連載「のーてんき通信 DAICON3の思ひ出」開始!

のーてんき通信 ダイコン3の思ひ出
1981年に大阪で開催された第20回日本SF大会「DAICON3」の思い出を実行委員長だった武田康廣が語る新コーナー「のーてんき通信 DAICON3の思ひ出」が始まります!
日本SF大会とは? DAICON3とは? そもそものーてんき通信とは? 読めばすべてが明らかに!!
本日第1回公開。随時更新されていきます。
お楽しみに~!!

「のーてんき通信 DAICON3の思ひ出」の「よりぬきのーてんき通信」は『のーてんき通信 エヴァンゲリオンを作った男たち』(2002年発行・ワニブックス刊・武田康廣著)からの抜粋再録です。




舞台「天元突破グレンラガン~炎撃篇~」キャストオーディションWeb投票開始!!

歌手、俳優として活動しているIZAMが率いる株式会社GARRABBA/ベニバラ兎団と戦国BASARAシリーズやノブナガ・ザ・フール等の舞台製作・企画の株式会社Office ENDLESSによる舞台「天元突破グレンラガン」のキャストオーディション最終審査Web投票が開始されました!

2000通を超える募集の中から二次審査を経て選ばれた最終候補者が、一部のキャストを除き視聴者の投票結果を審査資料として選考されます。
詳細はオフィシャルサイトをご覧ください。
皆様の熱き一票をどうぞよろしくお願い致します!
※GAINAXにお問い合わせ頂いてもオーディションについてはお答えする事はできません。ご了承ください。

関連リンク

公演概要

タイトル
全労済ホール/スペース・ゼロ 提携公演
「天元突破グレンラガン ~炎撃篇 其の壱~ 」
会場
全労済ホール/スペース・ゼロ
日時
2014年10月22日(水)~27日(月)
 10月22日(水)18:30
 10月23日(木)18:30
 10月24日(金)18:30
 10月25日(土)13:00/17:30
 10月26日(日)13:00/17:30
 10月27日(月)14:00
※受付は開演の一時間前、開場は開演の30分前からとなります。
チケット
前売/当日共に全席指定  
☆一般料金 6,800円(税込)
※未就学児の入場不可
チケット発売
8月中旬予定
スケジュールの詳細は公式サイトにて

プレイガイド
イープラス(PC・携帯共通)
☆ローソンチケット(Lコード:公式サイトにて)
 予約受付電話番号:0570-084-003(Lコード必要) 0570-000-407(オペレーター対応)
 インターネット予約(PC・携帯共通)
 ローソン店内Loppiで直接購入可
☆チケットぴあ(Pコード:公式サイトにて)
 予約受付電話番号:0570-02-9999
 インターネット予約
☆カンフェティ
 インターネット予約
☆スペース・ゼロ チケットデスク
 インターネット予約

スタッフ
脚本
町田誠也(R:MIX)
演出
IZAM
監修
GAINAX
舞台監督
野村正弘 (マナモア)
舞台美術
東宝舞台
照明
柏倉淳一(オールライトアソシエイト)
音響
前田規寛(S.S.E.D)
衣装
アークプロジェクト
ヘアメイク
小川万理子(raftel)
映像
プリズム
Webデザイン
まめなり
収録
カラーズイマジネーション
制作
Office ENDLESS
 
プロデューサー
IZAM 下浦貴敬(Office ENDLESS )
提携公演
全労済ホール/スペース・ゼロ
主催
GARRABBA Office ENDLESS


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ネギマンinめざましテレビ アクア最新情報

フジテレビの朝の情報番組「めざましテレビ アクア」(放送時間4:00~5:25)に、またもやネギマン登場!
今回のネギマンはちなみちゃんと初対面!(予定)
7月10日(木)に出演予定です。お見逃しなく!

※情報番組ですので、放送内容が変更・延期になる場合があります。ご了承ください。特に今回は台風さんの進行状況次第です。
※こちらの番組は関東のみで放送しています。

ネギマン


ネギマンinめざましテレビ アクア

フジテレビで放送中の朝の情報番組「めざましテレビ アクア」(放送時間4:00~5:25)に、三度ネギマン登場!
(※2度目の登場は放送終わってしまいました。申し訳ありません:;(∩´﹏`∩);:)
7月3日(木)に出演予定です。お見逃しなく!

※情報番組ですので、放送内容が変更・延期になる場合があります。ご了承ください。
※こちらの番組は関東のみで放送しています。

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