SF2001 未来国際会議

 小松左京マガジンにも書いたし、あちこちでイイワケしているので時期はずれになって恥ずかしいけど、ちょっと書いておきます。
 今年の日本SF大会「SF2001 未来国際会議」のことです。


 開催前になによりもショックだったのは、ダンナである武田康廣が「最後の実行委員長・ファグループ連合会議の議長も降りる」と表明したことでした。何回も「ほんま?ほんまなん?」と訊いたけれど、決意は固い。もちろん、その理由も理解できます。「ボクらみたいな年寄りがいつまでも牛耳ってたらアカンねん」は、若い時のソレナリの苦労を思い出すにつけ、もっともな考え方でした。
 でもなあ……。私はあのカオス状態の連合会議を太っ腹な態度でまとめあげ、何もないところからのSF大会をテーマに沿ってやり遂げてしまう武田の手腕がかなり好きだったりしたのです。私自身が、簡単に激怒したりパニックに陥ったりする性格なので、あの「ほわほわ〜 → 決定じゃ! → なんとかなるわい」という一連の処理の仕方は尊敬に値すると思っていたワケですな。もうあれが見られないかと思うと、本当に寂しい。
 ので、今回は私も「最後のスタッフ」になろうと決めていました。とはいえ、ゲストだかスタッフだか判らんような状態は最悪。都合よく偉そうぶったり都合よく遊んだりするタイプは大嫌いなもので。スタッフ制服をもらって、「これを着ている時はスタッフ。脱いだ時はゲスト」のけじめをつけることにしました。


 気は張っていたものの、京都に住んでいるので事前の会議にはほとんど加われず、ゲスト担当にしてもらったものの準備不足が心配、というまま当日になだれ込んでしまいました。
 直前に、受付業務のアナやら段取りの悪さやらに気がついたけれど、物品整理をしているうちに散発的に早くいらしたゲストさんの受付がはじまってしまい、ドタバタに突入。不徹底な面があってご迷惑をおかけした方もあったようで今も悔いが残りますが、あの状況でなんとか受付がこなせたのは、私の下に付いてくれたスタッフがいわゆる精鋭だったから。特に、S・S石・I藤の女性三人はガイナックスの中核人物。ケッタイな話、彼女たちの機敏な状況判断と働きぶりを見て、ガイナックスもなんだかんだ言って大丈夫なんだなあ、と安心しました。


 さて、実際の動きはといえば、最大の反省点が私のいるべき場所のこと。受付は当然ゲストさんの顔が判っている私がいたほうがいい。最初にきちんと個人に対するご出席御礼やフォローがあるだけで、絶対に大会の印象は良くなりますから。
 けれど今年はゲスト休憩室が奥の奥にあって、しかも誘導準備がうまくいっていなかった。開演前に二回ほど覗きに行ったけれど喫茶室は無人。ちょこっと顔を出して閑散としている様におののき、引き返してしまう人もアリ。これは私が向こうに貼り付いて「あ、○○さん、ご遠慮なく
どうぞ〜」と誘わないと、まったく機能しないおそれがある。
 結果的に受付を離れたのはあまりよくなかったようでしたが、ほんとうにこの件に関しては痛し痒しでした。


 パネルディスカッションやサイン会は私服に着替えて出席。娘の面倒見は突発事項(^^;)なので柔軟に対処。私個人としては、あとからの反省は多々あるものの、その時々の精一杯のことはできたかなあと自負しています。 


 途中、ファンクラブ的存在の「菅パティオ〈ミューズ〉」のみなさんとお茶できたのが、唯一のオアシス。娘はスヌーピーのぬいぐるみやらお菓子やらもらってご機嫌でした。


 私は星雲賞をいただいたことを事前に知らされていましたので、前もって「どーーーしても、今回だけはスタッフ制服でもらいたい」と我儘を言いました。SFオンラインや〈SFマガジン〉の記事にあるとおり、20年に及ぶファン活動をダンナと一緒に一区切りつけたかったのです。ファンをやめるのでは当然なくって、ファンというアマチュアの状態に甘えるのはやめよう、という感じ。書き手として、SF界の一員として、これからは例えば接客のサービスをすることがあってもそれは「プロSF作家・スガヒロエ」のプロのサービスを提供する、という厳しさを目指したいわけです。「だって、私もただのファンだし〜」という逃げを使わないように、というか……。
 受賞の時にはアレコレと押し寄せて泣いてしまいましたが、その75パーセントほどは、もうダンナの下で大会スタッフができないんだなあ、との惜別の気持ちからでした。
 私は、真実、SF大会のスタッフが好きだったのです。たぶん、私の人生観をすっかり支配されているほどに。
 思考能力の死力を尽くした企画準備と、精一杯の思いやりをこめた接客と、あとから耳に入る「よかったよ」というみなさんの一言。この充実感を知らなければ、似たようなコトに身を染める小説家なんかを目指してはいませんでした。
 20年の区切りをつける大会、ダンナ最後の大会、まさしくそこで「永遠の森」を評価していただけて、これ以上の喜びはありませんでした。
 ご投票くださった皆さん、ほんとうにありがとうございました。


 エンディング中は受付の後片付け。とはいえ、優秀な部下のおかげで私の出る幕はほとんどなし。
 なので、例年のごとく、送り出しに立ちました。あとから聞いたら、ほとんどの人が陸橋を通って帰ってしまったとのことで、メインの出入り口は人が少なかったのですが、それでも「ありがとうございました」と頭を下げると、何人かは大きな声でこちらへのお礼を言ってくださって、また涙がぽろっと……。
 清々しい気持ちで大会を終えられたことをとても嬉しく思いました。


 では最後に、個人的に印象に残った嬉しいことを列挙しておきますね。

 ……とまあ、イロイロとあったワケであります(^^;)


 それでは、スタッフ印象の件のフォローをしておきますね。
 私はいわゆるスパルタ式鍛錬を受けたDAICON3・4経験者です。これがまず前置き。
 けれど当時はメインスタッフが大学生(留年覚悟)で、今は社会人が多くて同じ状況ではありません。
 今回、武田は「やれるようにやる。任したことはソイツの責任で、手取り足取りはしない。けど、最後の総責任者はボク」というスタンスでした。私は準備のヌケの多さに歯噛みをし、彼は「いつまでも手ぇ貸してたら、そいつらのためにならへん。少なくとも自分からスタッフになるて言うたんやさかいな」が口癖。武田が京都に帰ってくるたび、私は「アレどうなったん?コレした?」と問い詰め、彼は「任せてある」と返す日々でした。
 対処法の相違は最後まですれ違いに終わりましたが、今では武田のやり方こそが「いつまでもボクが牛耳ってたらアカン」の実践ではなかったかと思っています。私がいらいらした今年の準備の仕方、しかしそのいらいらこそ、私がロートルになってしまった証拠のようにも思います。新しいスタイルについていけない人物は、自分の生真面目さを主張するのではなく、ついていけなくなった事実に目を向けなければならないのかもしれません。
 ただ、願わくば、これからのスタッフが「スタッフのプロ」の意識を高めてよりいっそうの自己研鑽を積んでくれますように。
 私がかつてDAICON4で、手塚治虫さんから言われた一言を忘れられないように――。ゲスト接待だった私は、大阪フィル演奏会の会場へ手塚さんをエスコートしていました。エレベータの中で手塚さんは「スタッフは演奏を聞けるの?」と訊かれました。私は「いえ。持ち場がありますから見ることはできません。私はリハーサルの時に少し見ました」と答えました。手塚さんはちょっと憐れんだような笑顔で「たいへんだね」とおっしゃいました。この時の私の自慢の気持ち、判っていただけるでしょうか……。


 スタッフは大会参加を楽しんではいけません。大会運営と、そこから得られる精神的な贈り物にこそ、楽しみを見いだしてほしいと思うのです。
 SF大会はSFが好きな人の集まりです。すべての人を心地よくさせるのは神様でもない限り無理だけれど、スタッフは目配り・気配りでそれに近づくことはできます。
 できる限りのことをやるからこそ、スタッフ打ち上げで涙が出るのです。
 自分の限界を見るなんてことは、人生の中でそうそうあることではありません。SF大会のスタッフは、自分の気持ちしだいでその経験をすることができるのです。そしてこのことは、絶対に後の人生に役立つことと思います。
 ……説教臭くなりましたが、これがスタッフを卒業するにあたっての私の正直な気持ちです。
 来年からのSF大会、ゲストの一人としてとても楽しみにしています。スタッフのみなさん、頑張ってください!

(2001年11月)


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